クロノクニ

□prologue
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くだらない。
くだらない。
くだらない。

顔についた己の血を無理矢理拭って、黒崎晴兎は呟いた。
何も知らぬ母が、丁寧にアイロン掛けをしてくれた制服は、血と泥を吸って鮮やかに模様を成していた。
素の藍色は見る影も無く。

くだらない。
くだらない。
くだらない!

体中の痣を、数えるように見つめる少年の目は、何処か虚。
くだらない事で、暴力に身を任せて殴って来たクラスメート達。
己を守る為に、素知らぬ顔して逃げていった友達。

愚かで、
くだらなくて、

屈辱に満ちた自分を見つめるのは、名も知らないような人々。
滑稽なのか、人々は笑う事を止めない。

くだらない。
くだらない。

血を大量に失ったらしく、目眩が晴兎を襲った。
裏路地で、仰向けに倒れた少年に映ったのは、薄暗い曇天の空。
嘲笑うかのような、濁った雫を落とし、顔を濡らす。

くだらない。

晴兎は再び呟いた。

涙は無い。
流す価値も無い。
少年は、虚な瞳を閉じて呪文のように繰り返す。

くだらない
くだらない
くだらない
くだらない
くだらない

くだら…ない…。

この世界もこの国もこの町も。

『連れてってやろうか』

ぼんやりとした、聴覚が捕らえたのは何かの声だった。
体は血液不足なのか、思うようには動けない。
しかし、誰かが自分を覗き込んでいることが、直感的に感じられた。

『ハイか、イイエか。
答えは二つ。
こんな世界で生きていくか。
それとも……



へ行くか。』

女のような
男のような

判別不明ながらも、ただ優しく響く声に、晴兎は目を細めた。

何も知らぬ母。
理不尽なクラスメート。
素知らぬ顔の友達。
見て見ぬふりをして、鼠のように逃げ惑う先生。
全てが走馬灯のように巡っていったとき、晴兎の心は、既に定まっていた。


「は……い」

答えると、少年の体から痛みが消えうせた。
傷も、痣も、血も。
始めから、そんなものは無かったかのように。
聴覚も、嗅覚も、視覚も、元の機能を取り戻していくのが、リアルに感じていった。
その視界が晴れたとき、映っていたのは、一面の黄昏だった。
先程までのどんよりした鉛色の空は、鮮やかな茜色に染まって輝いていた。

『黒崎晴兎。君は、私の手をとった』

声は、背後から聞こえていた。
恐れもなく、振り向いた先に立っていたのは、自分と同い年に見える少女だった。
不気味なほど白い肌に、黒い短髪。
何処にでもいそうな少女の姿をしているのに、何故か酷い違和感を感じた。
その正体は、すぐに判明したが。

「左目…が」

黒。だった。

普通の日本人ならば、少し茶が混じるはずである。
しかし、その少女の左目は完全な闇色をしていたのだ。
目を奪われていた晴兎に、少女は近寄り、ふっと微笑を浮かべた。

『ようこそ晴兎


クロノクニ…へ』











「あいつ、また休みな訳?」

「もう一週間も来てなくね?晴兎の奴」

他愛も無い会話の飛び交う朝の教室。
ある一人が呟いた一言に、一気に教室は活気を失う。

「学校来んの止めたんじゃね?マジうけるしよ」

「やっぱ、あんとき袋だたきにしたのが効いたりしてよ。負け犬らしいじゃん」

ドッと笑いの渦が小さな箱部屋を包んだ。
その中で、リーダー格の金髪の少年は笑いを浮かべつつも、その内の心の中で次なる獲物を探っていた。

晴兎はもはやこの高校にはやって来ないと判断を下す。
皆、楽しいだけの高校など求めてはいないのだ。
お手々を繋いで仲良くする時代は廃れ、群れをなしてイケニエを貪るハイエナみたいな灰色の世界へ変わっている。
いくら、道徳だなんだ語ったって、意味が無いということを狂った世の中が表していた。
少年の目は、無理矢理笑いを浮かべる晴兎の友人を捕らえる。
裏切りに対する罪悪感の為か、笑いは引き攣り、泣きそうにも見えた。

次は…お前だ。

少年の笑みは深くなる。
学校は関係ない。
自分は悪くない、イジメなんてない!
名誉だ金だで、逃げ回る臆病者には自分達を問い詰め勇気がない、くだらなく、カワイソウな先生達。
隠してきた、目を背けたこの高校に、こんな残酷な遊戯が繰り返されているなんてしれば…浮かんだ、絶望の表情に少年は心震わせる。

「晴兎いねーとさぁ…なーんか暇じゃね?」

その言葉が発せられた時、クラスメート達の表情が凍り付いた。

「思ったんだけどよー…」

友達裏切るとか最悪じゃねー?
しかし、その単語はガラガラという音に掻き消された。
聞き慣れた、教室のドアを開ける嫌な音だ。
このタイミングで、入ってくるのは教師だろう。
だが、ウザったげに振り向いた半数は、その姿に目を見開き、驚愕の表情を見せた。

「あ゛ぁ?」


黒崎晴兎がそこに、いた。これには、流石のリーダー少年も驚きを隠せなかった。
滑稽な彫像のように固まった皆を無視し、晴兎はすたすたと自分の机に向かっていく。
机から、次々と出していくのは一年近く使い込んだ教科書やノート。
それを無表情に次々と積み上げていき、最後に自分の筆箱を載せた。
最後に、小さな小瓶を取り出すと、蓋を開けてその上から透明な液体をかけていった。
その行動を呆然と見ていた皆に代わって、リーダー格の少年は口を開いた。

「お前何してんの?
カウンセリングでも受けて頭おかしくなっ…」

言いかけた言葉は、紡がれることなく消えていった。晴兎は、無言で小さなライターに火をつけ、それを筆箱の上に落として見せたのだ。
一瞬の静寂。
して、
緋色の火炎!

ごぉぉぉおっと、鮮やかなる焔は教科書やノートを食い荒らし、クラスメート達の悲鳴すら飲み込まんとする勢いで広がっていく。

ジリリリリ!
と音がなればスプリンクラーが、己の使命に気付いたように、凄まじい雨を降らせた。

「な、なんだぁ!?」

「キャァァア!」

悲鳴やら轟音が轟く中で、黒崎晴兎は、ぼんやりと皆を見て立っている。
リーダー格の少年が、スプリンクラーの雨が止むと同時に晴兎へと向かっていく。
何しやがると、罵声を浴びせようとしたとき、晴兎は顔すら向けずに口を開いた。

「俺を責めても、お前は英雄になれない」

今までのように、生意気な目だけ見せて、成すがままにされた少年の面影は、何処を見ても見当たらない。毒気を抜かれたような顔をしているリーダーに、晴兎はぼんやりした目で見つめていた。

「此処で、俺を殴って先生に突き出せば自分の地位が上がる…、お前はそれしか考えてない」

「んだとてめぇぇ!!」

胸倉を掴みあげて、晴兎を持ち上げてみせた。
しかし、晴兎は続ける。

「俺は、あの方の手を取った」

ドタドタと、教師達が向かうのが聞こえた。

「俺は、もう


…此処の国の人間じゃない」

「火事があったのはこのクラスだな!」

扉が開いた。
唯一、声を荒らげられる教頭が真っ直ぐにこちらに向かってくる。
リーダー格の少年は、何処か誇らしげに晴兎を掴んだまま答えた。

「この晴兎の奴がライターで火をつけましたー!」

これで、晴兎はめでたく退学、もしくは謹慎処分。
屈辱の目を向けて、ブザマに叫ぶ少年の姿が目に浮かび、彼は笑いを止められない。



「晴兎!?何処に晴兎がいるんだ!」

「…え………?」

教師達の目は自分に向けられている。
これには流石の少年も、困惑の色を隠せない。
何故、晴兎を見ない…!?此処で、悔しげに目を伏せる晴兎が見えないのか!?嫌な汗が、少年の頬をしたって流れていく。

「…晴…」

兎。

リーダー格の少年は、言葉を失った。
掴んでいたはずの、黒崎晴兎は



…消えていた。














『気分はどうだ?』

「よくわからない」

今だ騒がしい学校の屋上に、二つの人の影があった。一つは先程の騒ぎの中心人物である晴兎。
もう一つは、小さな小学生くらいの男の子だった。
しかし、纏う空気は黄金の王座に君臨する気高き王を思わせた。

『まぁいい、私の手をとったお前に、かつての古巣は意味を持たない』

「俺の帰る場所は…」

会った時、少女の姿をしていた怪物は薄く笑った。

「クロノ…クニ」

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