クロノクニ

□狂針 2
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時計の針は、人の生と似ているように錯覚致します。
人という名の羅針盤に縛られ、ただただ向かうしか道はございません。

過ぎた数字は、
色あせ、歪み、
忘れ去られるのが世の理。
わたくしは、その理を破ろうとしているのでしょうか。


「ユキ…ちゃん?」

「お母様は何故お亡くなりになったのですか?」

叔母様の目は驚愕に満たされ、手にしたマニキュアは小さな音を立てて床に落ち、血のような中身を吐き出しました。

「ユキちゃん」

…怖い

「ユキちゃん」

……怖い

「誰に吹き込まれたかは知らないけどね、ユキちゃんのお母様は、事故で死んだのよ」

………怖い

「悲しむだろうから、隠していたのだけれど、余計に怖がらせる事になったわね」

叔母様は、愛おしそうにわたくしを見つめました。

「ユキちゃんが、二歳の頃よ。
凄い雨が降っていて、
貴方のお母様は、時計の工房を心配して出ていったの…。
大きなから川が近くにあって、沈んでもおかしくない小さな工房だったから、
そうしたら」



−このご遺体は、赤沢さんのもので間違いませんね。








「後継ぎを無くした御祖父様は、その後心労で亡くなったわ。
御祖母様は、その三年後位に持病が悪化して…。

そして、私はユキちゃんを引き取ったの」

叔母様は、優しく微笑みました。
優しく、
優しく、

…優しく



それは、もう



背筋が、凍るくらいの
慈愛をこめて









その日、わたくしは眠る事が出来ませんでした。


優しい声、
優しい手、

なのに、


どうして、わたくしは
怖がっているのでしょうか。

カーテンの隙間から広がる闇は、そんなわたくしの心境を表すように不気味で。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ

時計の音が、耳障りに感じます。

不気味で、
不気味で、





『知りたいか』

声が致しました。
わたくしと、変わらぬ位の歳に見える少女でした。
しかし、その纏う空気は、そして何よりその漆黒の左目は…。

『あの女は虚偽の塊のような女だ』

ドアの前で、少女はわたくしにただひたすら問い掛けました。

『赤沢ユキ、お前は今、真実を欲している。
母が死んだ理由、して、己の魂を枯れさせた原因を』

少女の言葉は、まるで温かな風のようにわたくしの、抱える闇を包みました。


『知りたいのなら、




…私の、手を取れ』



差し延べられた、小さな手。

手を伸ばせば、わたくし出さえも届く距離。

『手を取れば、お前は真実をその手に納められる。

……だが』

一瞬、左目に、

真紅の、光が見えた。

こぼれるような、微笑みを貼付けて。
暗闇の怪物は唄うように呟いた。


『同時に、お前は…


此処の国へは帰れない』












ほら、音が聞こえる。
カチ、カチ、カチ、カチ、
ほら、声が聞こえる。
可愛い子…、愛しい子…



お姉ちゃんは、ろくでなしだ。
自分勝手で、無責任。
家の事なんて、全部私に押し付けて。
頭も悪くて、喧嘩っ早くて下品だし。

お姉ちゃんは、最低だ。
私の彼氏と、遠くに逃げて駆け落ちして。
子供なんて産んで、責任感じた彼を逃がして。

なのに…

どうして、お母さんとお父さんは、お姉ちゃんを迎えたんだろう。

「ユキ、ユキでよくね?
アイツが好きな雪からとって」

幸せそうに、お姉ちゃんは赤ん坊を抱きしめる。

なのに、お姉ちゃんよりも誰よりも努力した私は、幸せになんてなれなかった。頭が悪いくせに、時計技術に関しては天才で。
あっという間に後継ぎになって。




そんなの、おかしい。

なにも努力しない人間が、簡単に幸せ掴むなんて。

許せない。

許せない。

許せ…ない!

きっと、神様が間違えてしまったんだ。

私が、白い教会で結ばれて、彼との間に子供産んで、幸せに暮らすはずだったんだ。

だから、
だから、

その子供は、私の子。


返して、

私から盗んだ赤ん坊を。

返して、

私の幸せを。










「ユキちゃん?」

大きな物音がした。
時計を確認すると、朝の4時を印していた。

ザワザワする胸の内を抑える事なく、叔母は部屋へと歩だす。

長い廊下をぼんやりとしたオレンジの光が照らしていた。
幼い頃、何度歩いた廊下だろうか。
母も父も、…姉も、歩いた道を、叔母は微かに震える足で歩んでいく。

自分の歩みなれた道に恐れを感じるのは何故だろうか。

プレートのぶら下がった扉が見えて来た。
見慣れた我が子の部屋の扉が。

「ユキちゃん?」

小さくノックをするも、何の言葉も返っては来ない。時計は今だ、朝の4時を指したまま。
寝ているに違いない。

それでも、この不気味な寒気は治まらなかった。

「入るわよ?」

ドアノブが妙に冷たく感じた。

キィ…と音をたてて、扉は開かれていく。

「ユキちゃん?」

手探りで、電気のスイッチを探り当てて、躊躇いなく押した。
照らされたベッド。
そのうえに居るはずの我が子は…

「ユキちゃん!?」



どこにも、無くて。

開かれた窓から飛び出すように、叔母は窓へと駆け出した。
冷たい外気に、纏められた髪が揺れる。
血走ったような眼球で、街灯の照らす道路を見つめる先に、探した小さな影が止まった。

「ユキちゃん!!」

シンプルな白いワンピース。
見違えるはずもない赤沢ユキが、亡霊のように歩くのが見えた。

「ユキちゃん待って!」

悲鳴にも似た声を上げて、女は駆け足で家から飛び出した。
美術展の朗らかな貴婦人は、我が子を求める狂った鬼女へと変貌する。

裸足のまま、発狂でもしたかのように女はユキを求めた。
金切り声をあげ、暗闇に消えた少女の面影を探し続けて。

「ユキちゃん!」



「ユキちゃん!」



「ユキちゃん!」












「…思い当たる事はありませんか?
ユキちゃんが出て行こうとするような事が」

それから、何日が過ぎたろうか。


赤沢ユキは、今だに帰らない。

食事も喉を通る事なく、叔母は死人のような痩せこけた顔で、ぼんやりと刑事の言葉に頭を横に降る。

「…ご安心下さい。ユキちゃんは必ず探し出して見せますよ」

不思議な事に、赤沢ユキを見た人間は一人も居なかった。
朝早くに市場へと向かう板前や、ジョギングを日課としているもの。
…誰も、彼女を見ていない。


赤沢ユキは、消えたのだ。

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