番外編

□首無し蟷螂の回想
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冷たい夜風が私を灰色の世界に曝した。
かつては何一つ無くに、私を迎えた大地は、無言で私を拒絶した気がした。
視界は閉ざされ、音は身で感じるより他無かった。
全ては時間に身を任せ、存在すると言うあの世へ向かうのか。
はたまた、なにも無き、無の混在へと消えるのか。
解る術もなく、答えもなく、私は或る。
或るが故に私は混沌と過ぎたる時に想いはせた。あぁ、何故私はこの身より生まれ、在りしか。
幾千の姿有りて、私がこの醜く、はかなき姿をしてか。
世は私に何を求め、何をに向かい生を受けてか。













『死にゆく貴様がそれを望むか』


声が

した。

もはや聞こえるはずもない、音を聴き入れる器官は、昔に消えたはずなのだ。
ヒトに酷似したその声に抑揚はなく、ただ脳を浸蝕する。
お前はなんだ?

『私はありきたりな存在だ。意味も無ければ踏み越えた大地すら冷たく静かだろう』

嘘と真実は交互して答えを覆った。この生物に近い者…怪物とでも名付けようか…それに初めから真実を話す気など無いのだろう。
身体を浸蝕するような、怪物は陽炎のような不気味な声をしていた。

『もはや貴様は死ぬしかあるまい。ならば、この私がその果てまで導こうか。眼と耳が無ければ私が手でも引いてやろう』

助けは必要無い。

『助けなど何になる。私の道標に情けは無い。私の勝手だ。貴様が何をぼやこうが私には逆らう事は不可能と言えよう』

元から、抜け出すのは不可能。
怪物は恐らく私を逃す気は無いのだろう。
意味のないただの塵となるよりは、怪物の玩具となり散った方が幾分かマシだろうか。
もはやプライドは、失った身体の一部とともに消えたも同然なのだ。
思えば、なんと不快な世であっただろうか。
矛盾を重ねて、苦悩を飲み干し、慈悲の心は食い荒らされた。
愚かしい全ては凍り付いて善意共々影を為して。
それの中に埋もれた己はなんと醜いのだろうか。脚はひしゃげて両手は潰れた化け物のようで。





私は醜い己が嫌いだった。



その昔、何百という兄弟の中の一人として、生を受けた。
兄弟達は我先にと日の光を求めて飛び出す中、私は怯えて足がすくんだ。
それは則ち、その世界で生きるのを否定したに値すべし。
私は臆病者と罵られ、兄弟達は皮肉を含んだ笑みを手向け、そして消えていった。
遺ったのは、生まれながら力なく、散った兄弟達の亡がらのみだった。形すらまともにとれず、奇怪な姿の兄弟もいた。

私は、異端に過ぎなかった。

生まれながら、何かを手に掛ける事に、とてつもない恐怖を抱いた異端者だった。
それに反して私の両手は、必ず何かを死に向かわせる不気味な形を現していたのだ。


これが、地獄で無ければ、なんと言うのだ。

やがて、世界を拒絶した私に、最悪の選択が待ち受けていた。

私は、空腹に悩まされた。
大地を踏み締める力すら無かった私は、生まれた箱庭から出ることも出来ずに、只死を待つのみ。
理解している。
私は死ぬべきであると。
なのに、身体は、生きていたいと叫んでいた。
それは本能に近い己の姿をし、私をあちらへあちらへ囁く。

目の前に転がる肉塊を見よ。
これらは生まれながらに生きる事を否定されたお前の兄弟である。喰えば、何よりもお前が求める極上を見せるであろう。
我が兄弟の肉を喰え。
お前は空腹に悩まされ、今最後の選択を迫られている。
死ぬか生きるかに、偽善的な思考はいらない。必要無い。
兄弟は、既に息絶えているのだぞ。

私はまともな判断力を失いつつあった。
騙りかける本能に、姿なき己に私は、


私は、

私は









気が付けば、私は肉塊を貪っていた。
それがかつて共に生を受けた兄弟だとか、まだ辛うじて生存者であるなど、私にはもはや関係など無かった。
只、空腹だった。
それを満たすのに精一杯な、醜く、小汚い己の姿がそこにあった。
あぁ、なんと愚かな。
あれほど、生きる者を殺すのを嫌った私が。
なんと愚かな。








今となっては、流れる記憶の断片に過ぎない。
しかし、それこそが今の私の原点であり、生きてきた証だ。懸命に、只、存在を望んだ他の生命を奪い、食い荒らし、我が血肉の一部とした。
私はあの時、あの始まりの日に、慈悲も情けも棄ててきた。
生き残る為に。
…だが怪物よ。貴様に問いたい。私はあの時、確かに慈悲の心を宿していた。
命を奪うのを恐れ、死を望んだ私がいたのだ。
貴様に聞きたい。
あの答えを。
私は、私のような命は、何故このような姿を受けたのだ?

私が生きた意味は、なんなのだ?









『貴様が、生きた意味…か。



そのような事、私に解る筈があるまい。



只、貴様は生物としての使命を真っ当したに過ぎない。

生きて、

生きて、

生きて、

生きた。

大地はそれを拒絶しなかった。
誰も、お前を否定しなかった。


それが、答えなのかはお前が決めることだ。


まぁ、もう聞こえすらしないだろうがな…』






灰色の大地が、広がっていた。
日は鮮やかな紫暗を含み、再び太陽が現れる事を暗示した。
風は変わらず冷たく、広がる世界を駆け抜ける。



大地に転がる、首の無い、蟷螂すら、包んで。

















首無し蟷螂の回想















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