番外編

□白の世界の桃源郷
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旅をしていた。

何処までも、白い世界を。

自分の足で、歩んでいた。







白い平原が、続いていた。
雪のようだが、薄着でも平気なのが不思議で、まだ歩みを止めたくない。
何処まで歩いても同じ景色が続き、時折枯れた漆色の樹木が連なったが、直ぐに過ぎてしまった。
広い無限の白い世界を歩き続ける事に、不信感を募らせる事も無かった。

あと、もう少し歩きたい。
あと、もう少しだけ。
自由に、自由に。

静かな世界だった。
自分の足が、雪の中に減り込んで、ぎゅ、ぎゅとなる音だけが、私の耳に入る。

白の中に、赤いスニーカーは栄えた。着ている服は、病院で配分される白の服だ。
鏡は無いから、必然的に目に入るのは赤いスニーカーだけ。
目的すら曖昧だけど、歩みを止める理由も無い。
私は気でも可笑しいんじゃないと笑うほど歩いていた。






枯れた木を何本通り過ぎただろうか。


人が、立っていた。

黒い髪に黒いコートのお兄さんだ。
黒のファーがあしらわれた薄手のコートは、すらりとした姿にとても良く似合っていた。

「こんにちは」

『こんにちは』

「お兄さんは、此処で何をしているんですか」

『何も、していない。
此処では私は何も捜せまい』

何時間そこに居たのだろうか、お兄さんの肩には雪が降り積もりつつあった。
感情も抑揚もない人形めいた声は、そんな彼に輪をかけて不思議な雰囲気を出させていた。

「だったら、一緒に行きませんか?一人は寂しいものです」

『断る理由はないな。お前にも興味がある』

「私は只の…」


只の…





何だっけ。
ぽっかり開いた、穴のような曖昧な答えが口に出た。
お兄さんは綺麗な無表情を崩さないで、私の言葉を待っていてくれていた。
何だか嬉しくなって、何でも無いよ、とはぐらかした。

お兄さんは、何も聞かなかった。






「お兄さんは何処から来たの?」

『…さぁな。私は或るだけだ』

雪を踏む音が、増えた。
軍人さんの履くようなブーツのお兄さんは、低く笑って答えてくれた。

「じゃあ、あたしと同じだね。
あたしも或るだけです」

『…そうだな』

「お兄さんは何時から此処に居たんですか?」

『お前が私を見つけた時だ』

「お兄さん、あたしをからかってますよね?」

『お前からすればな』

お兄さんは相変わらず無愛想に話をしてくれた。
ムカッとして嫌味気味にした会話も、いつしか慣れて、あたしにも笑顔が自然に出るようになって。なんだか楽しかった。
歩む足も心なしか、穏やかだ。

「お兄さんも何か話して下さいよ。あたしだけが話をして、お兄さん何も語らないんじゃ、不公平ですよ」

『…話?』

お兄さんが顔をしかめた。初めて見せた、表情、だ。
暫く、待ち受ける用にお兄さんを見つめているとようやく解ったと返してくれた。

足の歩みを止めぬまま、お兄さんは口を開いた。

『旅人の、在り来りな話だ』




旅人は、ずっと旅をしていた。自分を自由にするために。
広い、広い、雪の世界を。

ある日、生き絶えた鳥の子を見つけた。
親も、兄弟も、見当たらない。
何故、一羽で此処まで来たのか。
そして、旅人は気付いた。
これは、己と同じ、


…自由を求めていたのだと。


その鳥を胸に抱いて、旅人は泣いた。
あぁ、自由とは、それを互いに感じ合うものがいなければ、只の孤独なのだ。
この鳥も、私も。
もうそれを遠く、遠くに置いて来てしまったではないか。

そのまま、旅人は鳥を抱いて雪の世界に消えていった。
雪に咲いた小さな花は、彼等を哀れに思った雪の世界の墓標だという。




「…それで?旅人は?」

『さぁな』


「何それ、つまんない。


つまんない。


つまんないよ…




ねぇ、つまんないよ…」




頬に、何かが伝った。
それは、不気味にも、次々と溢れて、止まらない。
涙、というよりは余りにも淡白で泣いたような気がしない。
お兄さんは歩みを止めて、あたしを見ていた。
その目は、真っ黒で明けぬ夜のようで。

『お前の創ったこの雪の世界は、不完全だったな。
冷たさが、命の息吹が欠けたこんな世界に、お前の自由があったのか?』

「…止めて、止めて!もう嫌だ!苦い薬も、痛い手術も、この部屋も、お医者さんも嫌なの!!」

流れこんでくる。
嫌で嫌で堪らない現実の足音。
忘れていた、痛みが、痛みが。

「お母さん話を聞いて!!どうして聞いてくれないの?あたし頑張ったの!!だけど治らなかった!もう苦しいのは嫌なの!助けて!もう身体も動かないの!」

あぁ、あぁ、あぁ、もうお話することも、笑う事も、お気に入りの赤いスニーカーを履いて、歩くことも。

「助けて!あたしもう嫌だ!どうして、どうして生かせるのに、会いに来てくれないの!?お母さん!お母さん!!」

自由に、してくれなかった。
生きたまま、死んだようなあたし。
何もない、自由が、自由が。
ただ、…欲しい。
でも、結局、独り。
ただの人形劇に過ぎなかったんだ。
解った時にはもう遅かった。
気付いた時には、もう欲しいものには手が届かなくなっていた。
まるで、雪の世界の旅人のように。










『私とお前は、自由だ』





不意に、お兄さんが言った。
目を反らさず、ただ真っ直ぐに。

『私は、お前と私は自由だと、言った。

偽りの世界のなかで、お前と私は真実だった。
会話をし、共に歩み、笑った…
お前はその時、自由ではなかったのか?』








くだらない世界だった。
独りの、あたしが、あたしだけが幸福の世界。
馬鹿にされても、しょうがない事なのに。
お兄さんは、そんなあたしを、否定しなかった。
あたしを、拒絶しなかった。
流れた涙が、意味を変えた気がした。もう自分の終焉が哀しくて泣いている必要が、意味が、無くなってしまったから。
お兄さんの冷たい手を、ゆっくり握って、初めて笑顔を見せた。
楽しいとか可笑しいとは違う、あらんばかりの幸福を敷き詰めた、泣くような笑顔。

「…あたしも、自由だったよ」


















白い病室に、冷たい電信音が響いた。
がりがりに痩せたベッドの上の少女は、眠っているようにも見えるほど、穏やかな表情を浮かべていた。
側に横たわる、小さな花はそれを見届けたように、床に転がり、花びらを散らした。

まるで、物語の墓標の、ように





『旅人よ。
雪の世界を歩め。
迷う事なく、踏み外す事なく』




白の世界の桃源郷

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