番外編

□おかしな恋の物語
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林道アヤカは人殺しだった。


彼女はモデルと見間違う程の綺麗な女の人で、街に出れば何時でも周りは大騒ぎ。
小校、中学、高校、何時も彼女の周りには、彼女を慕い、時には嫉妬する女。引かれていく男がいた。
彼女は、天に二分も三分も与えられた人だった。

完璧で、聡明で、優しい人。だった。


それでも彼女の目は、何処か何時も遠くを見ていた気がした。
深い黒色の二つの双眸は、側にいる人間を映さず、常に何かを捕らえて離さない。
それに気づいたのは、中学の頃。林道アヤカと俺は幼なじみの親友という微妙な立場。幼なじみは女だった。
交わす言葉も無く高校生となったある日、部活の朝練をする為に訪れた教室に林道アヤカが立っていた。窓の外を見つめる彼女は自分に気付かないようだ。
白い肌に垂れた黒い髪のコントラストが、不気味な程美しかったのが今でも瞳に焼き付いている。

やがて軋んだタイルの音が、俺を現実に引き戻した。甘美な夢を見ていたようにも感じた。
しかし、同時に恐ろしかった。
林道アヤカは、綺麗な女だった。恐怖すら、その美貌を引き立て、自分を凍り付かせたのだ。

「おはよう」

「…おはよう」

「朝練?」

「ああ」

当たり前のような会話が、俺と林道アヤカを繋ぐ。当たり前のこと、当たり前の会話。なのに、彼女は何処か上の空だった。

何時も

遠くを見つめて


「ねぇ、私の名前知ってる?」

「…アヤカだろ。急に何だよ」

「お母さんが付けてくれた名前なんだよ。あのね倉本(俺の旧姓)君。
アヤカの漢字は




殺める華でアヤカっていうんだよ」





その日、アヤカは人を殺した。





放課後の教室でクラスメートをありきたりな包丁で刺し殺した。


林道アヤカはそのまま逃げて、学校はパニックに陥った。
刺されたクラスメートは、アヤカとは全く関係の無い平凡な女子生徒。残念な事に、救急車が到着した時には、出血多量。既に手遅れで。もがき苦しみ、血みどろの生徒が息絶えていく姿を、俺は震えて見ていた。

それからアヤカは指名手配に顔を貼られ、犯罪者として追われる身になった。町で噂の麗人は、只の狂った殺人鬼にされていく。警察が彼女の家を訪れた時には、母親はマンションから飛び降りて自殺していたという。

そしてアヤカは完全に行方不明となってしまった。

連日ニュースとなる彼女の話。殺された女子生徒の遺族の叫び。彼女は、殺人鬼。何が彼女をそうさせたのか。父親が昔首吊り自殺。今の若い人々に、道徳心はないのか。
俺は、何処かそれを冷めた目で見ていた。
彼女のしたことが何を意味しているのかなど、俺には到底理解出来ないだろう。彼女のしたことは、間違いない犯罪なのだ。赦されぬ罪なのだ。
けれど俺には、拭いきれない蟠りが、胸の奥に残っていた。それの正体が解らぬまま、月日は流れていく。
やがて俺は社会人となり、家庭を持ち、幼なじみの女との間に初めての我が子を持った。
いつしかアヤカの記憶は薄れ、マスコミの間からも少しずつ林道が消えていた。あれから、十年。

林道アヤカが、消えていく。








それでも、胸の鉛は質量を増して俺を締め付けた。
今だに俺はそれから逃れる術を知らない。









会社の帰り道、俺は上司に付き合わされて飲んだ。
胸の奥に沈む塊を洗い流すかのように飲んだ。頭が真っ白になって、両手が異常に震えるまで。上司の声が耳に入った。焦点の合わぬぼやける視界、ああ、どうして俺は泣いているのだろう。情けない。情けない。騒がしい周りを最後に俺は意識を手放してしまう。

俺は急激な飲酒による急性アルコール中毒を引き起こしたらしい。目を覚ました俺を、妻は泣きながら俺を罵倒し、上司は俺を叱り飛ばした。俺はどうにか一命を取り留めたのだと妻が言った。

大事をとって入院していた俺は、言いようのない不安にかけられていた。目を閉じても、浮かぶあの黒い双眸。全てを見放したような、諦めたような、それでも真っ直ぐな不気味で不思議な瞳。何故彼女が消えない?

また、俺は目を覚ました。



『…眠れぬか』

低い声が、鼓膜を震わせた。そういえば此処は一人部屋ではない。話した事は無かったが、声からして初老の男性だろう。バツの悪さから、眉間にシワを寄せて頭をかいた。

「すいません。起こしましたか?」

返事は無かった。不信に思い、体を起こしたが、分厚いカーテンに遮られた視界に、姿が映る事は無い。映し出されたのはぼんやりとした黒い影だ。

『林道アヤカが怖いのか?』

「っ!な、何を」

言っている。それは唐突に吐き出された。しかし、言葉は続く事なく喉の奥に押し戻された。

『林道は純粋な女だった。もしあいつが腹に蔓延る悪意に涙し私の手をとったのなら、まだ騒ぎは最小限にあっただろう』

初老の男が低く笑った。
まるで、彼女を知るかのようなその言葉は、俺を縛り付ける。

『お前は、哀れな男だ。無意識にも林道に魅入られ、流れる月日を廃人のように生きている』

「あんた、あいつの知り合いか?」

『さぁな、私と林道に面識など必要無い。意味も持たない。私はこの世で最もつまらなく、ありきたりな存在なのだ』

「アヤカはなんであんな事をしたんだ」

何となく、この男がアヤカの真実を知っている気がした。今思えば妙な話しだろう。男の不可思議な雰囲気に、俺の感覚は麻痺していた。

『あいつには、この世の本質が見えていたのだ』

「本質…?」

『この世から争いが消え、世界のあらゆる害が消えたとき、何があると思う?平和か?永劫の平穏か?
…残念な話しだが、それは未来の衰退なのだよ。
平和は一時の堕落に過ぎない。
林道の父親はそれの犠牲者…。混沌と秩序の均衡を保たせるために、犯罪者等という免罪をかせられた男だった。
悪意は、いわばその堕落への鍵なのだ。…、まぁ、それに憑かれた人も人だがな…』

意味の解らない言葉の羅列に、頭がおかしくなりそうだった。つまり、犯罪を犯した者は均衡を保たせる為の‘何か’によって、誘惑された者だというのか。眩暈がする。
男は、俺の問いに答えた、と、いうよりも自分を納得させたような発言を零したのだと思う。

『林道アヤカは絶望していた。世界の理を認めるのが何よりも腹立たしかった。何故父なのか、何故、私の愛する者なのか!?林道は幼い頃より迷走していた。人間にはよくある話だ』

「じゃあ林道はなんで人を殺したんだ」

影が笑った。
笑うなんて、おかしな話なのに。ほの暗い、掻き回したタールみたいな闇の中で。



影が笑った。



『それはお前がよく知っている』







次の朝を向かえる時、あの初老の男は消えていた。人間が存在していたという痕跡一つなく、文字通り消えて無くなっていた。
けれど俺のぼんやりとした頭に巡るのは、そんな不気味な男の事では無い。

林道アヤカは、どうして人を殺すはめになったのだろうか。

もし、あの男が言ったうように、この世界に法則が有るのなら。どうしてアヤカなのだろう。誰よりも聡明で、優しく、綺麗なアヤカ。そんなアヤカが何故、下らない平穏の代償になってしまったのだろう。


アヤカ以外の、誰かが堕ちれば良かったのだ。アヤカでない誰かが手を染めてしまえば良かったのだ。


もし。

もしも。

まだ、間に合うのならば。


俺はアヤカの身代わりになりたい。

アヤカの代わりに。
ただ、なりたい。

アヤカ、

アヤカ、

君の代わりに、俺が黒く染まってしまいたいんだ。

君を見た、あの日から。



俺は









手の平にのしかかる冷たい鉄は、きっと俺の中に沈んでいたあの蟠りなのだろう。

妻の声が耳の奥に届いて残響する。
その見慣れた顔が、恐怖に歪むのを感じて。






俺は手の中の刃を振りかざした。






『お前は、アヤカに恋をしたのではない。お前は、アヤカに魅入られたのだ。

林道アヤカは魔性の娘だ。

捕われたお前に、もはや私は興味無い』





アヤカが笑った気がした。






おかしな恋の物語








愛しているよ。林道アヤカ。














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