投稿小説2

□空の標石(マイルストーン)
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 アシェルは建物に戻るなり、まず宿舎へと足を運んだ。そして自室の戸を勢いよく開け、つかつかと軍靴を鳴らしながら室内に入る。
 部屋の中は非常に簡素なもので、二つのスプリングが潰れたベッドと机が一台ずつ、それからランプが中央に一つぶら下がっているだけである。片方はもちろんアシェル本人のもので、実によく整理整頓されていた。シーツも皺ひとつないくらいに整えられており、その上には寝巻代わりにしているリネンのシャツが丁寧に畳まれていた。
 もうひとつのベッドには、丸い毛布の塊がじっとうずくまっている。微かに上下しているので、どうやらその塊の中央には未だに誰かが眠っているらしい。
(こんなことだろうと思った)
 アシェルがその横に仁王立ちすると、彼は呆れ混じりに長ったらしい溜息をつく。眉間に手を当て、この事態を一体どう対処すればいいのか頭を悩ませている風だった。
 考えあぐねた結果、彼は毛布そのものを勢いよく引っ掴み、そのまま思い切りひっぺがすこととした。
「バル! 一体いつまで寝ているんですか! とっくに就業時刻過ぎてます!」
 アシェルの怒号に反応し、布団の中から出てきた男――バルはうめき声を上げながら両手を宙に漂わせる。彼が探しているのは間違いなく毛布なので、まとめて巻きとり脇に担いだ。
 年齢はアシェルと同様に二〇代半ばほど。癖の強いくすんだ金髪に、今は寝起きなのでみっともない無精髭を生やしている。鼻筋が通っているため、ちゃんとすればそれなりの美青年なのだろうが、今はそんなことお構いなしに寝汚い風体を露にしている。
 そんな彼は怒りを全面に押し出しているアシェルへと目を向けると、腰に響くハスキィ・ヴォイスで返答した。
「昨日の夜間飛行(フライト)がしんどかったんだよ。寝かせてくれ、頼む」
「しんどかったのはおれも同じです。さぁ、今日の午前はささやかな事務処理が待っていますよ。午後は非番ですし、……まぁ、決して飛びませんがこれも立派な仕事です」
「飛ばねぇんじゃあ、意味ねぇよ」
 短く吐き捨て、バルは再び夢の中へ引き返そうとした。なにを言おうと、彼は布団を誰よりも愛している。そして、誰よりも陸にいることを嫌うのである。
 ――こうなったら、最終手段だ。
 アシェルはぽつりと呟いた。
「先程、随分美人な女性が事務局に訪れましてね。バルがいつまでも仕事をしないから、ずっと待っているのですよ。少しはかわいそうだとか考えたら……」
「なにっ?」
 その言葉に反応して、バルはがばりと起き上がる。そして、爛々と輝く青い目をアシェルへと向けた。
「それは本当か!」
「ええ。だから早く来いと言っているのに」
「今行く!」
 バルの女好きには心底困ったものである。
 アシェルは小さく息をつき、おもむろに寝巻を脱ぎ出したバルに背を向けた。
「じゃあ、お願いします。おれは別件でしばらく留守にしますので」
「えっ、まさかぬけがけ?」
「おバカ」
 ぴしゃりと言い放つ。「いいからさっさと着替えなさい。それと、みっともない髭は剃る。髪、それはなんですか。たんぽぽの綿毛ですか。爆発しています、直しなさい」
「お前は俺の母親か」
「うるさいですよバルデルラバノ。いいですか、その耳かっぽじってよく聞きなさい。三分待ちましょう。一秒でも遅れたら死海に突き落としますのであしからず」
 バルの文句を遮るように早口でまくし立て、アシェルはひとりで自室を出た。
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