投稿小説2

□空の標石(マイルストーン)
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「この空は、一人では飛べない」
 と、彼は言った。
 その男は飛ぶために生まれてきたような男で、強いて言うならば結構なバカだった。いつもの自分ならば、そんなことはなるべく口にしない方がいいと窘めたかもしれない。もっとひどければ、嘲笑したかもしれない。
 けれど、その男の背中を見ていたら、妙に彼の言い草に納得してしまったのである。
 そしてこうも思う。
 おれもそんな風に、自由になりたかった――と。



 アシェルはどこまでも広がる果てのない蒼穹を仰いでいた。
 深い緑色のコートは膝までの長さで、風が吹くたびにひらりと裾が翻る。比較的地味な格好だが、襟元につけられた鴉の紋様が入った徽章と、左腕につけられた臙脂色の腕章がちょうどいいアクセントとなっている。そして足には黒色の軍靴を履く。
 そんな出で立ちの彼は、茶色に銀の光彩をちりばめた独特の瞳をきゅっと細めると、長く息を吐き出した。彼の瞳が見つめるのは、青空の中で流れゆく白い雲である。彼はしばらくそのまま宙を眺めていたが、後に手元へゆっくりと視線を落とす。
「思ったより流れが速いですね」
 そして、ぽつりと呟く。
 彼の両手の中で存在感を露にしている高度計、彼はその目盛を右手で調節した。
 淡々と高度計を操作するアシェルの精悍な顔立ちは凛としている。ひとたび強い風が吹きつけると、額が見えるくらいに短い真っすぐな黒髪がさぁっとなびいていった。
 しばらく高度計に目を落としていると、ふと狭い視界の中に黒い影が写り込んだ。顔を上げると、ああやはり。小さな飛行機が横切ったのである。あの黒い機体は、アシェルも非常によく知る同僚が操縦するものだった。
 じっと見つめると、縦並びに座っている二人の人物のうち前に座っている「誰か」がアシェルに向かって手を振るのが見えた。アシェルの視力は桁外れにいいのである。
 それに対して手を振り返してやると、機体は謎の宙返りを披露し、飛行場へと向かっていく。
 しばらくアシェルはそのまま宙を眺めていた。
 そして、のろのろと高度計を降ろす。履いている制服のポケットから銀色の懐中時計を取り出すと、整った眉の端がぴくりと震えた。
「あいつ、また遅刻ですか」
 さて、とアシェルは踵を返した。ひらりと翻る裾すら気にも留めず、彼はずかずかと背後に鎮座している長大な建物へと戻って行った。
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