私は三度死んだ。
全国の中でどれだけの人が理解しているのだろうか、この病気を。私はまだ、26歳で一児のシングルマザーです。それだけではなく鬱病を抱えてもいるのです。どれだけ悩み、どれだけ苦しみ、どれだけ死にたかったか。私がこの病気のきっかけになったのは十代の頃。それは学校でのいじめでした。学校へ行かなくてよい方法、考えた末にたどり着いたのがリストカットでした。自分の手首をゆっくりと流れてゆく真っ赤な血。それは自分を取り巻く雑念を取り払うかのようでした。これがいけなかったのです。私は自分を解放する一つの快楽を知ったのです。私の左腕には無数のリストカットの後があります。手首にももちろん。そんな私も高校生になりました。それでもいじめという、人間トラブルが待っていました。私は高校を中退し引きこもりの生活にはいりました。お気づきでしょうか。私の文には冒頭から家族の存在は登場していません。学校ではいじめ。家では孤立した寂しいものでした。そんな家族へのアピールだったのでしょうか。悲劇にも第一の殺人はおこりました。今だかつてないほどのリストカット、ナイフで手首を切ったのです。それも深く、より深くと。ベッドには大量の血。指先からは床へ伝う流れゆく血。私は気を失っていました。家族は不思議に思ったのでしょう。ノックしても起きてこない私の部屋を開けたのは姉でした。その悲惨すぎる光景に姉は叫び声を出し、父は私を担いで病院へと運びました。意識のない私は病院で縫合の処置を施され一命をとりとめたそうです。これが私が自分を初めて殺した第一の死でした。辛いと叫べない、苦しいと訴えれない、そんな私がいたのです。三度目の死までの最後まで。私は家族へのアピールに失敗しました。誰一人として私に聞かないのです。自殺未遂の訳、苦しみ、叫びを。父も母も姉2人も。病院から戻った後も今までと同じ淡々とした日常でした。処置のために病院に一人で通い、部屋に閉じこもる、今までと変わらない毎日でした。
そんな生活を16歳まで過ごしたでしょうか。突然、母の死がやってきたのです。健康診断を受けていながらも発見されなかった2ヶ月後、母は病院で癌と診断され余命半年とまで申告されました。そして、あっという間でした。入院して、わずか25日というスピードで母は逝ってしまった。頑固な父と思春期の私との緩和剤となってくれといた母が逝ってしまった家は荒れました。結果、17歳の私は一人で家を出ました。そこからは、よくある話です。家を出て一年後、18歳の私は大きなお腹を抱えて家に戻りました。妊娠です。相手の男性とも結婚しました。そして挙げ句のはてに19歳で離婚。私は謙虚な気持ちをもち産まれたばかりの息子をしっかりと抱いて自宅へ戻りました。暖かく迎えてくれた時は幸せで胸いっぱいでした。もうリストカットなんてする意味なんてないと感じていました。きっと神様はいたずら好きなのでしょう。笑い声の絶えない日々は続かなかったのです。ある日姉とちょっと小競り合いをした時がありました。私は自分の感情がコントロールできず、いつの間にかカッターに手が伸びていました。部屋に閉じこもり鍵をかけ二年ぶりのリストカットをしてしまったのです。寝ている息子を横にして。この一件を記に姉2人は私に病院へ通うことを勧めました。でも嬉しかったんです。孤立していたはずの私を助けてあげたいと言う姉達の言葉が。13歳から始まったリストカットという衝動的な行為から、やっとの19歳。治療としてクリニックに通い始めました。それからの2〜3年。病名は付けられたもの治療が私をを助けてくれ、生き生きとした私がもどってきました。私は車の免許も取得し、公園では息子も友達ができたし、お弁当持ってドライブなんてこともして病気とはバイバイなんて思っていました。そして、仕事も始めることもできました。息子が幼稚園の間に近くの喫茶店でちょっとお手伝い。姉達もそれぞれ結婚もし、自宅は父と私との息子の三人暮らしへと変わっていました。父も丸くなり、私も成長し、息子も楽しい幼稚園。皆が充実した生活だった時だったんだと思います。それがまたもや永くは続かなかったのです。当時の日記を見ると徐々に私の生活に異変がおこりはじめていました。朝は病院でもらった安定剤をなんとお酒で飲み。息子をおくりだしては主婦業をしなから一杯。仕事に行く前にも一杯。まさにキッチンドリンカー状態。後は右肩下がりで急降下。仕事もろくに行かない毎日。日記には、こう記されていました。「やる気がでない。何もしたくない。もうどうでもいい。どうしちゃったんだろう私。」姉に病院に連れて行かれるとそこで言われたのが「あなたは鬱病です。一日も早い入院をおすすめします」でした。私の表情のなさに息子は心配そうに見ていました。先生にすすめられるがままに荷物をまとめ、息子に笑顔の一つ
も見せないまま自宅をあとにしました。入院生活は半年にも及びました。戸惑いはあったものの笑顔の日もありました。けれど毎日飲む沢山の抗鬱剤。それが、たまらなく嫌でした。けれど出会ってしまったのです。リストカットに続く、私の快楽法を。オーバードラッグでした。嫌な薬をこっそり溜め込み一気に飲む。何錠ぐらいだったでしょうか。睡眠薬も含めれば40錠にもなった時もありました。当然、意識はなくなり最も苦しいと言われる胃洗浄。看護師からは「苦しかったでしょう」と聞かれても「意識がないので覚えがありません」の会話でした。その会話は私がオーバードラッグをするたびに幾度となく繰り返されました。そうすると当たり前の話です。私は刑務所にいるかのような鉄の格子で囲まれた部屋へ移されました。自由が無いのはこんなにも苦痛なものだと味わいました。リストカットにオーバードラッグを繰り返しながらも私にも退院日は近付いていきました。これは後から父に聞いた話です。週末、一時外泊で自宅と病院との行き来をしていた時の頃。母親の私を病院へ送る日曜「また来週帰ってくるね」と私が言うと息子はニッコリと笑顔を見せてくれました。当時、4歳の子供です。寂しくないわけがありません。私とさよならした自宅へ戻る車の中。後部座席に座った息子は声を殺し肩をふるわせ頬には涙がつたっていたそうです。父は車を停め息子を抱きしめ「お前が一番苦しいなぁ」と一声かけ2人で泣いた日も何度かあったそうです。そんな日々を乗り越え
私は退院することができました。これで親孝行、息子孝行が出来ると張り切っていました。それから数ヶ月笑い合える家族の姿がありました。けれど第二の死の時はこくこくと迫っていたのです。私は正確な時間に薬をは飲み、周りを動揺させる事からは遠ざかっていました。でも私の精神状態はまだまだ未熟で病気が完治したわけではありませんでした。またある日の事でした。前回よりか荒く姉と口論になった時がありました。そんな最中にも関わらず、私が次に目を覚ましたのは一日後の早朝、ベッドの中でした。状態が飲み込められません。横には息子が眠っていました。姉がやってきていました。いきさつを聞くと私は第二の殺人を変異的な形でおこしたと言うのです。私は姉との口論中回理性をおこしていたのです。回理性とは簡単に説明すると、相手の攻撃に脳が耐えきれなくなった時、衝撃を抑えるために脳の思考回路が切断されてしまうことです。私はその回理性によって体は動くものの、脳の思考回路は止まっていたのでした。そんな私は家中の薬を飲み、ふらふらな足取りで薬局で睡眠薬を買って飲みという過去最大のオーバードラッグをしたのでした。自宅へ戻り、自分の部屋でこんこんと眠り続けました。それが午前中の時でした。それから夜になっても起きてこない私を父は姉との喧嘩でふて寝でもしているんだろとしか思っていませんでした。それが夜中まで続いた時、息子はすがる思いで電話をしたのです。「ママがいつまでたってもおきてこない」と。すぐに状況を把握した姉は真夜中にタクシーを飛ばし家に上がり込むなり、父に叫びました。「何で気づかなかったの!死んだお母さんと同じ顔じゃない!」やっと事の重大さに気付いた父は私を急患センターへ運びました。姉は息子のフォローです。「何でじいじに言わなかったの?」「だってね、だってね、ママがねっておくちをあけるとなみだしかでてこなくてこわかったんだもん。」姉は力一杯「大丈夫よ」と声をかけたそうです。一方、病院では胃洗浄をし先生は父に「あと発見が少しでも遅れていれば娘さんは亡くなっていましたよ」父はただ、うつむくだけでした。これが私の二度目の死でした。私が弱いのか、鬱病のせいなのか。正確に位置を保てない不安定な生活がずるずるとすぎていきました。そんな毎日を抜け出そうと仕事をして外の空気にあたってみようと思う日も多くなりました。そしてパートで事務職につきました。
けれど、活動的に仕事をするべきではなかったのです。専門学的には何かを始めようとする回復期とよばれる時期が衝動性にかられ危ない時期なのだそうです。思い返す行きたくない中学時代。その記憶が蘇るような現実逃避。リストカットですめば、オーバードラッグですめばよかったのです。苦しいとも辛いとも助けてとも叫べず、私はマンションから飛び降りました。今年であの飛び降り自殺から2年がたちました。
三度目の死は私を成長させてくれました。1年という長い入院生活はリハビリとの涙の戦いでした。「もう足は治りません。車椅子生活を真剣にお考えください」とも言われた足は障害が残ったものの、リハビリの頑張りからか歩けるようにまでなりました。家族一同も障害や精神疾患の勉強をしてくれていたようです。そして今ではリストカットやオーバードラッグもしなくなりました。でも鬱病との闘う毎日は耐えしのぐしかありません。通院とカウンセリングを受けながら過去のあやまちを悔やみ、繰り返さない精神力を養っていっています。忘れていけないのが息子の事。詫びきれないほどの醜態を見せてきたママをずっと大好きでいてくれました。今の私の仕事は家族孝行をし息子に沢山の愛情をそそいでいくことです。

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