捧げ物
□神女の舞 風の楽
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風はひとつ所にとどまらない。
母と称される大地を滑り、父と称される天空を舞い、花を揺らして、木々を靡かせて舞い踊る。
あたしの持つ扇は、舞扇じゃないけどね。それでもさ、それは見事に舞ってみせるんだよ。
あたしは、風だ。何物にもまつろわずに生きる女だからね。
自由に舞っているのさ。
それが、あたしの望んだものだから。
−−尤も、端から自由ってわけじゃなかったけどな。
森の中に、一筋。陽光が差し込む。その先には揺らぐ湖面。次第に凪いでゆくその上には、真白な羽毛をふわふわとさせながら、ひとつの羽根が浮かんでいた。風に吹かれもせずにとどまるそれを、殺生丸は何とは無しに見つめた。
ザァァ…ン…−と大きく風が横に吹き抜けて、彼の白銀の髪をふわりと浮かせ靡かせる。殺生丸は一瞬瞑目したのち、つと、横に振り向いた。
−−よお。誰かと思ったら。久しぶりだね、殺生丸−−
横を向いた先に、婀娜な声を響かせるその者の姿はない。しかし、先程まで湖面にゆらゆらと揺らいでいた羽根はいつの間にか消え失せ、代わりに口許を扇で隠し、榛(はしばみ)色の瞳に妖艶な笑みを湛えた女が映っていた。
「…−−か」
−−如何にもな−−
「…何の用だ」
−−ハッ。何の挨拶も無しに『何の用だ』とは…相も変わらずつれない男だね−−
女はやれやれと言わんばかりに肩をすくませて、盛大に溜息をつくと、パチンと扇を閉じて、己の肩をそれで軽く叩いた。
−−たまたま、ここらを通ったらあんたが見えたんでな。ちょっと寄っただけさ−−
「……」
−−奈落はくたばったか…−−
「……知っていたのか…」
殺生丸が女に問うた。女がコクリと頷く。
−−ああ、あたしは風だからね。姿はなくとも、それを『見る目』はあるさ。しかし、アイツもしぶとく四魂の玉にしがみついてあのザマか。畢竟、本当の望みも叶えてもらえずくたばるとはな。ハッ、笑える話だね−−
女は何もかも既知していたというよな口ぶりで言うと、力無く笑って眼下に立つ殺生丸を見つめた。
奈落の分身として生まれついた女は、風の二つ名を持ちながらも風のような自由はなく、言ってしまえば捕われの身であった。心の臓を握られている為に自由に動けず、『風』でありながら『風ではない』身であった。
本来、風とは、何ものにも縛られず、捕われず、まつろわず、『自由』に舞い生きるもの。
だから、と女は思う。
自由を求めた。自由が欲しかった。風のように自由に生きることを望んだ。
思い願った通りではないにせよ、姿をなくした今の己でもいいと思う。風となり、自由を得ることが出来た。それでいい。何の凝りだってない。
それも、目の前に立つ男のおかげかと、女は内心微笑んだ。己の最期は一人寂しく静かな真白の花畑でむかえるはずだった。そこに、殺生丸は来てくれた。当初は、奈落の匂いを追って来たのかと思った。しかしながら、予想は大きく外れた。
(お前だと分かっていた…)
女はハッと瞠目した。
(分かって……あたしだと分かって来てくれたのか…)
淡い想いに心を満たされたような気がした。
胸が熱い…。
殺生丸は腰に佩いた天生牙をスラリと抜刀する。だが、彼の目が一瞬曇った。黄金色の瞳が深みを増す。女は悟った。やはり、駄目か…と。それでも十分だった。来てくれただけでも。身体が後方にグラリ…と傾ぐ。『想い』を胸に秘めて、女は空を舞って行った。
サクリ……と、殺生丸が数歩前に進む。
「お前はそれで良かったのか」
−−ああ。自由になれたからね。まあ、違う形での自由になっちまったけど、今更、『良い』も『悪い』もないさ−−
「…そうか」
女はフッと笑うとクルリと背を向けた。
「…行くのか」
−−ああ。風はひとつ所にとどまるものじゃないからね。もう、行くよ−−
「………」
−−…殺生丸−−
「なんだ」
殺生丸が答える。女は、表情が窺えるか窺えないかの角度で、肩越しに振り返った。
−−殺生丸……あんたのこと、あたしは嫌いじゃなかったよ−−
また、大きく風が吹いた。
女の−−−神楽の姿はもう何処にもなかった。殺生丸は、先程までそこにいた神楽の影を暫く見つめた後、徐に踵を返した。
「……馬鹿なことを言う…」
振り向きもせずに言った言葉に呼応するように、小さな風が歩む殺生丸の白銀の髪を靡かせた。
−−本当は、好きだったなんて、口が裂けても言えないさ−−
風が舞う。
神女が舞い、舞扇が翻る。
揺れる翡翠の玉が織り成す音とともに、響く風の楽。
彼(か)のもとに届くであろうか。
風が舞う…。
Fin.
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