小説
□パステルの海
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P.1−1792文字
「結婚してるらしいぜ」
ぼうっとしていた一言(かずゆき)は、友人の声で我に返った。
それが徐々に脳内に行き渡り、視線を元に戻す。桜が舞う大学の中庭。昼下がりの構内は眠たげに春の光で霞んで、あくびが漏れた。
「へー」
視線の先――新しい日々に周りが浮き足立つ中、黒髪をなびかせて一人歩く彼女、月中一実(つきなかひとみ)。本を大量に抱えて正門をくぐる。今日は図書館ではなく家で読書のようだ。
「意外だよなあ! 月中さんって、フリーな気がしてたんだけど!」
「そーだな」
「つーか、まだ大学一年だぜ? 結婚とか……すげーわ……」
「うん」
「おいおい、興味なさげだな。あー……そういうことね。もてるやつは違うわー」
ベンチにもたれかかり、露骨に悲しんでみせる友人を無視して、一言は正門へ向かう。
友人が呼ぶ声がしたが、顔も向けずひらひらと手を振って、ぞんざいに別れた。
「……日下部(くさかべ)くん!」
一瞬驚いたようだったが、一言だと気づくとやわらかく微笑んだ。
中途半端な時間帯だからか、電車内にはうたたねに興ずる老夫婦や、自分達と同様に講義を終えて帰宅するところらしい学生など、まばらにしか人がいなかった。
「今日は図書館じゃないんだ」
「うん。家でしたいこともあるし」
それは家事なのか、と冗談でも言おうと思ったが、やめた。彼女を前にするとこういうことが多くある。些細な嘘でさえ、言わせない力が彼女にはあった。
「それにね、家の方が感想書きながら読めていいの」
「へ? 感想?」
「うん」
何かおかしなことを言ったか、とでも言いたげな彼女の瞳はまっすぐに輝いた。彼女がぱちぱちと瞬きをした後、噴き出してしまった。
「な、どうしたの?」
「はは、いや、マメだなと思って」
しばらくして彼女がいつも降りる駅に着いた。
小さく手を振って改札を抜けた彼女の背中を見続けていたかったが、その前に電車が出た。
彼女が結婚していると聞いても驚かなかったのは、彼女にそれを納得させるだけの雰囲気が元からあったせいなのか、噂を聞く前に彼女に出会っていたせいなのか。
一実は雰囲気こそ大人びていて、家庭的な理想の妻、といった感じだが、実際に話してみるとどこか抜けていて、暗証番号も簡単に忘れてしまいそうな、ぼんやりした人物である。
――結婚してる、っていったら、びっくりする?
左手の薬指に光る、銀色の指輪が妙に綺麗だった。白くて、細い指。折れそうで、消えそうで。
図書館で見かけた彼女。
話しかけてみると同じ文学部で、本の趣味もよく合った。
入学して間もなく出来た“友人”に彼女は喜んでいた。人見知りだからと。
――びっくりはしないけど。結婚しているふうには見えないな。
一言がそういうと、悪戯っぽい笑みを浮かべて、そっか、と言った。一言の言葉を予想していたようでもあったし、なぜか少し嬉しそうにも見えた。
――良かった。結婚してるように見えたら、それなりの歳に見られちゃってると思って。
彼女とは、たまに図書館で話したり、電車で会ったりする程度だった。人に見られることもごくごく稀である。そのせいか、同じ大学の誰も、自分達が接触していると知らない。
彼女も自分も、人との関わりをそれほど持っていると言えないからだろうか。来る者拒まず、去る者追わず。
彼女の場合は何か触れてはいけないような、過ぎた清純さのせいで接触を試みる者も少ないようだが。
良かった。
そう思うのは、なぜか。
「日下部くん」
講義が二、三時間空いてしまい構内をふらついていた一言は、最終的に図書館に行こうと思っていた。移動ついでに散歩でもしようかと中庭に辿りついた時、声をかけられた。
「月中さん」
「日下部くんも講義はいってないの?」
「うん。変に時間空いて困ってた」
「そっか」
――図書館行かない?
声が重なった。
少し低いが通る声、小さくて柔らかい声。
風が中庭に吹き、桜を散らせた。
一瞬。
戸惑いはすぐに笑い声に変わり、春風に溶けた。
「行こう、日下部くん」
彼女の笑顔が黄金(きん)色の午後になじんで、紅茶にミルクがゆるやかに溶けてゆくようだった。
背景には、桜。
淡いピンク色の花弁がはらはらと舞い落ち、優美なその香りと共に彼らに降り注いだ。
――ああ、そうか。
あの時彼女に話しかけて良かった。
誰も、彼女に触れないで良かった。
そう思えたのは。
先を行く彼女が振り返って笑った。
パステルピンクの中に消えては浮かぶその煌めきに、そっと頷いた。
それが例え、実をつけないのだとしても。
End
※お題:パステルの海(Noa Noa.さま)
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