小説
□ソンブロ・ノエルの黒い幽霊
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(だからやめろって言ったのに)
パッセが呆れた声を上げた。
百貨店内を歩くマルク。しかし、その瞳はどこを捉えているとも知れない。
(マルクが気にすることじゃないわ)
ラルムが慰めの言葉をかける。
そう、そもそも、あの少年を諭そうと思っただけで、他には何の意図もない。少年の行動は“悪”だ。自分は、“善”いことをしようとしただけだ――。
(“善”いこと、ですか――)
レーヴが意味深に呟いた。
それはそれは、貴方の考えは至って正当です。ただ、それが彼にとって、彼の生活にとっての正義だったわけではなかったようですが、とも。
マルクは唇を噛み締めた。
(『魔法』の無い貴方は、誰かを救うことが出来るとでも?)
人の心を、様々な色彩の炎として“見る”ことが出来る彼の能力。その炎を操り、新たに灯すことも、消すことも出来る、魔法。
魔法の無いこの世界では、この力は目立ちすぎる。そうして普通の人間として暮らしていた彼だったが、今まで魔法に頼っていた彼には、魔法を持たない人間がどうやって人と関わり生きていくのか、分からなかった。
人混みにその身を溶かしたつもりでも、いつまで経っても自分だけが遊離しているような感覚に襲われた。所詮、自分は、異質な存在。
ここに居るべきではない、人間。
(……マル、ク……)
ドゥルールが悲しげに名を呼んだ。
奴らが、絶望という甘い毒を吸って存在を増しているのが感じ取られた。それに喜んでいるのか、嘆いているのか、そこまでは解らない、そんなことを考える気も起きない。
沈んだ心持ちのまま百貨店内を宛もなくさまよっていると、人にぶつかった。
謝ろうと顔を上げると、そこには人だかりが出来ていた。
「……なんだ?」
――『ノエル(聖夜)の贈り物』と大きく見出しがついた張り紙が目に入った。少し広めの空間には絵画が展示されており、どうやら絵画の展示会を行なっているらしい。
その片隅、すなわち野次馬の中心で二人の男が言い合いをしているのが見えた。
(あら、また揉め事……?)
ラルムの声には嫌悪が混じっていたが、それよりもマルクを牽制しているようにも聞こえた。
マルクは群集の後ろから、彼らの頭越しに見える僅かな景色を見つつ、フロアに響く悲鳴のような声を聞いた。
「どういうことだ!」
「そう申されましても、お客様、我々にも如何せん把握できておりませんので……」
上等な生地のスーツに身を包んだ男は、震え上がる男性店員に向かって怒鳴った。平常心を失ってしばらく経つらしく、今にも爆発しそう……という表現がふさわしい。
よく分からないが、もう、今日は――。
踵を返そうとしたマルクの耳に、マダム達の会話が入ってきた。
「黒い幽霊、ですって?」
「そう、原因不明の小火騒ぎがあったんですって。それも、二度も。黒い煙が上がって……すぐに収まったから良かったけれど」
「まぁ……それが本当なら、その黒い幽霊のせいかしら……」
「不吉ね」
(気になるのですか)
腹の底に響くような低い声。からかうようなレーヴの言葉に、舌打ちする。
出口へ向かうマルク。しかし、その足は背後から聞こえた声に思わず歩みを止めることになった。
「よろしければマダム、詳しいお話をお聞かせ願えませんか」
炎を灯すように、レーヴが姿を現した。
利発そうな見た目に丁寧な口調。その好青年に話しかけられた女性たちから黄色い声が上がる。
マルクは頭を抱えるべきなのか、その場にうずくまるべきなのか、はたまた好青年をぶん殴るべきなのか、もうどうすることが最善か分からなくなっていた。
「なるほど。ここは絵画の展示場、そして、即売会場でもあると」
激昂していた男はお客様で、昨日、ここの展示場の絵画の一つを買ったらしい。買った、といっても売約済の札が貼られただけで彼の手元には無く、この展示会の趣旨の通り、『ノエルの贈り物』として明日彼の自宅に届く予定だった。
「そして今日、百貨店で小火騒ぎが起こった」
「ひとつはこの展示場で、もうひとつはこの展示場とは全く関係のない場所で、だそうですが」
「……奇しくも、といっていいのか分からないが、その折、この展示場からあの男が買う予定だった絵画が無くなっていた」
展示場とは反対方向になるとある店舗で起こった小火、と、この展示場で起こった小火。その時上がった黒い煙のせいか、いつしか尾ひれがついた噂話は、黒い幽霊の存在を生み出した。
(絵を、燃やした……の、かな……)
(そこらへんで簡単に燃やすとかできるわけないだろ? 第一、見られたら終わりだ)
(むぅ……)
(というか、二回も小火があったんなら、その間に起こったに決まってんだろ。で、犯人は絵を盗んだ奴と同じ!)
ドゥルールとパッセが言い合う声。なるほど、ドゥルールの意見には賛同し難いとマルクも頷いた。
売約した絵画は、去る時代の貴重な宗教画。この展示会で最も高値がついていたこともあって、それは厳重に警備されていたようだ。
しかし、その絵があった所には、黒く塗りつぶされただけのキャンパスが額に収まっていた。
「……ノエル、か」
悪趣味な。
額縁に張り付けられた題(ティトゥル)を見て、顔を歪ませた。
それは聴衆も同じなようで、人だかりからひそひそと話し声が聞こえた。眉をひそめる彼ら。マルクと同様の感想を抱いたらしい。
「それだけなら、まだ良いのですが、ね」
「どういうことだ、レーヴ」
それに答えたのはレーヴではなく、野次馬たちの大きな話し声だった。人がたくさんいるせいでそうならざるを得ないのだろう、本人達は内緒話をするように頭を寄せ合っており、声量など考えてもいないようだが。
「……不気味だわ」
「黒い幽霊の……呪いかしら……」
「そういえば、この展示場の主催者って、確か金貸しもやってるみたいだな……」
「おい、じゃあ、これ……」
「呪いよ」
「呪いだ」
憶測は飛び交い、そうするうちに自由に跳ねまわるようになった。そして、尾がつき羽がつき、得体の知れない魔獣へと変貌していく様をマルクは見ていた。
隣で、レーヴが微笑んでいる。マルクの言動をただ見守っている。加えて、他人の不幸を楽しんでいるような気もしたが。
例の黒い絵画にそっと近寄る。男も店員も口論の真っ最中で、野次馬もその顛末に興味をそそられているようだ。ちらりと周囲を確認し、改めて絵画を見る。
(真っ黒ね……)
真っ黒、といってもマルクには様々な色が混ざっているようにも見えた。純粋な黒い絵具では無い。
(……ショコラ、みたい、だね)
おいしそう、と言ったドゥの言葉に頭から転びそうになったが、確かに、まじまじと見ると、闇がとろりととろけ出してきそうな、歪な表面。絵画、とは呼べそうにないが、なかなか好きな雰囲気ではある。
「――?」
もう一度絵画に顔を近づける。
なんだろう。
脳の奥までぼうっとするような、甘くも感じる匂い。これは。
(坊っちゃん、油絵に興味あったのか? そういえば、あっちでは絵を描いてたんだっけ?)
パッセがからかうように言う。そして、マルクの返答を聞くことなく続けた。
(じゃあ、馴染み深い匂いだな、絵の具の匂いも。ボクが研究に使う薬品も似たようなもんだから、分かるよ)
くせになるっていうか、自分の匂いみたいになるよな。まぁなっちゃマズイんだけどな。そう言ってパッセは笑った。
お前の研究と言ったって、所詮大人の真似をしているだけ、下らないままごとだ――そう言おうとした口を閉ざす。しかし心中はパッセにも届いているわけで、彼の激しい罵声が聞こえた。が、マルクはその言葉を聞き流し、額縁に目をやった。
何かを拭いたような跡。黒い絵具のようにも見えるが。
(うっかり、こぼしちゃったのかな……)
(額縁に入れるのは絵が出来てからだろ? なんで完成した後で額縁が汚れたりするんだよ)
(…………修正?)
(はぁ? だったら取り出せばいいだろ?)
(絵のこと、なんか、分かんないもん……)
ドゥとパッセの口論を、ラルムが止める。
頭が痛い。
せめて外(マルクの内側ではなく、という方の意味で)でやって欲しいものだが、ここは人が大勢いる百貨店。突然三人も人間が増えてやかましく口論などされては、黒い幽霊以上のオカルトだ。
ふと、足元に目を遣る。
しゃがみこんで、よく観察する。
額縁にあったのと同じような、彗星のように尾を引く、黒っぽい軌跡。
マルクの紫眼が怪しく光った。
「レーヴ」
「……はい、マルク様」
傍らに佇む男、胸に左手を置き、主の命令を待つ。まるで、待っていた、と言いたげな色を秘めた返答は、従順な犬と貪欲なハイエナ、両方の性質を持っていた。
「あの売約済の絵画――あれの元の持ち主を調べろ」
「はい」
「最後まで、徹底的にだ。解っているな」
「はい、承知致しております」
「……すぐに戻ってこい」
深く礼をすると、レーヴは人混みを水が流れるように抜け、人目につかない所まで出ると、すっと消えた。
A suivre...
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