長編
□02
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『あなたは…誰ですか?』
目の前にいる少女は確かにそう言った。
―アナタハダレデスカ?
頭の中でその一言がグルグル駆け巡る。その言葉って初対面の人間に言う言葉やんな。俺達は仮にも恋人同士やったんやで?
名前の顔をみれば冗談で言っとる訳やない事ぐらい分かる。やけど…これを冗談やって信じたかった。
『すいません…わからなくて…』
頼む…今冗談やっていってくれたら…笑い飛ばせるから…
「…お願い…や……」
『私の知ってる人ですか?』
「………っ…」
その一言が何よりも胸に突き刺さった。もはやこんな展開、俺にはどうすることも出来なかった
ガチャ
その時ドアが開いた。
「ジャーン!果物持ってきたでぇ〜!」
手に袋を提げた謙也が明るく入ってきた
『あ…ありがとうございます』
「ほれ、お前ミカン好きやったやろ」
そう言ってヒョイと名前にミカンを一つ投げる
『え…そうなんですか?』
ミカンを受け取った名前が不思議そうに尋ねてくる。この発言で謙也の動きが一瞬止まった
「せ…せやでぇ?人の分もぶんどるぐらいのな」
それを聞いてちょっと恥ずかしそうにした名前を見て何だか胸が痛くなった。自分の事も忘れるなんて…
「なぁ…白石」
ミカンの皮を剥き始めた名前に背を向ける形で謙也は俺の横の椅子に腰かける
「…逆向性健忘の部分健忘。事故で脳に強い衝撃を受けたのが原因やって親父が言っとった」
名前に聴こえないように小声かつ早口で話された。医療的な言葉はあまり分からないが要は記憶喪失。部分健忘っちゅうんは過去の記憶が全部飛んどる訳やないっちゅうやつやったはずや。
「障害が残っとらんのが唯一の救いやったわ。…うん…せやねん」
俺に言ったのか自分に言い聞かせたのかもはや謙也にも分からんやろう。
謙也は明るく振る舞っとるけど名前と一緒におった時間は俺より長い。やっぱ混乱しとんのやろう
「兎に角もうこれからの生活はいつ通りに遅れるはずやで!名前、もう退院できるからな」
そう謙也は言って子どもをあやすみたいに名前の頭をポンポンと撫でる。いつもはこれをされたら名前は子供扱いするな、と拗ねていたのだが…
『は、はい。それよりあなた達はその…優しくしてくれますけど……その…』
名前の言いたいことを汲み取ってしまった俺は言葉に詰まってしまった。本当に名前は何にも覚えてへんのや…俺のことも幼馴染みの謙也の事も…
「…さっき紹介したように俺は忍足謙也な。こっちは白石蔵ノ介。」
『白石さん…』
初対面の人を覚えるように名前を重複する。完璧に忘れとるんやな…
「で、コイツはテニスでバイブルっちゅう別名があるんや。ま、俺の浪速のスピードスターには負けるけどな!」
そう明るく謙也が言うと名前がちょっとだけくすくす笑う
『スピードスターって…』
「あぁ!笑ったなぁ!こんなにかっこええのに!」
わざとなのか素なのかちょっとだけムキになっとる謙也とその反応を見て尚も笑っとる名前を見て俺は微笑ましくもちょっとした悲しみも覚えた
「それと俺と名前は…幼馴染みや。かなり長めの…な」
それを聞いた名前は急に笑顔を失った。自分が覚えていないことに対してだろう
『ご…ごめん…なさい……』
「あ、いや!謝ることないって!……寧ろ謝らんでくれや…」
寂しげに謙也が呟いた。かつては一緒にふざけあっていた二人がこんな関係にあることに俺の胸はますます痛んだ
「そんで白石は名前のか―」
「友達や」
俺の発言に謙也が驚いていた。現に俺も自分の発言に驚いている。…多分俺は怖いんやと思う。彼氏やって言っても覚えられてなかったら…そう考えると言わない方がマシやって
『そう…なんですか。ごめんなさい…』
今の礼は覚えてないと認めたようなもの。やはり俺の胸に何かが突き刺さった
また部屋に沈黙が訪れる
『…ご…ごめんなさい。ちょっと気分転換…してきます』
名前は俺らの顔を見ずにそう告げて部屋を出ていった。
「ほな…俺、親父に名前の事聞いてくるわ」
場を読んだのか謙也も名前を追うように部屋から出ていった
パタン…
「記憶…海馬…健忘…脳症…」
口からは呪文のようにそんな単語が出てくる
「……はぁ」
あまりに急展開すぎて何から処理して良いのかすら分からない
「ははっ…頭…おかしなりそうや……」
広い部屋に俺の声だけが虚しく響いた
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