銀河英雄伝説

□ワルキューレは勇者を愛する
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 傍から見れば明らかなのに、ユーディットは自分の感情に、プロポーズされるまでまったく気づいていなかった。
 仲間や友人を喪くしたとき、怪我をしたとき。気落ちしているであろう時に限ってミュラーの傍にいたかったのが何故なのか、考えることすらなかったのである。


 帝国暦3年7月26日 23時29分 ヴェルゼーデ仮皇宮にて
 ローエングラム王朝第一代皇帝、ラインハルト・フォン・ローエングラムが崩御する。

 深夜帰途に着いたミュラーの傍らには、いつの間にかユーディットがいた。
 小さな子供の手を引く姉のように。ユーディットはただ黙ってミュラーの手を取ってミュラー上級大将の官舎まで付き合った。
 ミュラーがユーディットの存在に気づいたのは、留守宅にたどり着いた後だった。
「ミュラー。明日…もう今日か。訪ねてきてもいいか」
 今も、訪ねているではないか。そもそもそこに彼女がいることにすら今気づいたところだ。ミュラーが返答に窮している間に、ユーディットは次の言葉を口にしている。
「私はここ数年で料理の腕を上げたぞ」
「・・・へえ、それは楽しみですね」
 脈絡の無さと内容の突飛さに呆気に取られたが、彼女なりの気遣いだということはわかった。弱々しいながらも笑みが浮かぶ。
「しかし明日は」
「じゃあ、また来る」
 ミュラーの都合など聞かないのは、出会ってから4年。以来ずっと変わらない。来てもいいかと一応とはいえ断ったのは、今回を含めてたったの2度目だ。
 言いたいことだけ言って、返事も聞かずにユーディットは去っていった。引き留めようとして、結局ミュラーは腕も声も下げてしまった。
 来るというからには来るのだろうし、料理の腕が上がったというのだから、彼女の人となりからは到底想像もつかないが、夕食でも作ってくれようというのだろう。とはいえ、相手をできるかどうかは別の話だ。恐らく、否、確実に、暫くは多忙を極める。さすがのミュラーもこのタイミングでユーディットを気遣う心の余裕は持ち合わせていない。
 もう寝てしまおう。眠れるかどうかはわからない。けれど、生きているものは、生きていかねばならないのだ。
 食事代わりのブランデーを胃に流し込み、毛布に包まったミュラーは、しかし翌朝早くに、隣室からの喧騒で目を覚ますことになる。
 午前5時。戸口を叩いたのは仕入れ業者ではなく、幾度となくミュラーの官舎を騒がせてきた伯爵令嬢で、ユーディットは困惑する従卒に「約束したから」と厨房の指揮権の譲渡を要求した。無論、従卒に否やを言う権利はない。
 6時25分には一人前の朝食がテーブルに並んだ。予定の起床時間より30分ほど早く目覚めてしまったミュラーは、ユーディットの訪問を聞かされるや一瞬で睡魔と別れを告げた。猛スピードで身支度を整え、食卓に現れたのが6時35分だ。
「フロイライン。これはいったい」
 そこに立っていたのは満面に笑みを浮かべたユーディット。そして彼女は
「私の手料理が食べられるなんて、わが夫となる男にも叶わぬことだ。お前は幸せ者だぞ。ナイトハルト・ミュラー」
 ああ、それはつまり夫になる男のリストに自分の名前は入っていないということだと、ミュラーは軽くめまいを覚えた。
「さあ。どうした。早く食べろ。冷めてしまうぞ」
「あ、ああ。はい。頂きます」
 焼き斑のできたスクランブルエッグを、恐る恐る一匙すくって口に入れる。幸か不幸か緊張して味なんか感じなかった。本当ならば食欲などない。こんなイレギュラーがなければ食事をとることもなかっただろう。
ごくりと喉が動いたのを見届けるや、ユーディットは満足したらしい。「邪魔をしたな」と帰っていった。声を掛ける暇もない。
 翌日も、ユーディットは同じ時間にやってきた。おのずとミュラーの起床時間は早くなり、ユーディットは正面玄関から出入りするようになる。早朝ゆえに、あまり人の目にはつかなかったようだ。もとより気にするような性分の彼女ではなかったが。

 8月2日。国葬が執り行われ、同年9月、摂政ヒルデガルド・フォン・ローエングラムの名に於いて、皇帝ラインハルトの遺言が施行された。
 元帥になったミュラーの元へは、未だ早朝の訪問が続いており、それを耳にしたミッターマイヤーは「ミュラーが例のご婦人から襲撃を受けたらしい」とビッテンフェルトに言い、ビッテンフェルトは「それみたことか」と大げさに顔を覆った。
 同じテーブルを囲んで珈琲を飲んでいたワーレンが、「鉄壁ミュラーもそろそろ防衛限界ではないのか」と呟くのを聞いて、彼らは久しぶりに笑みをこぼした。

 ワーレンの予言めいた発言のあった翌日。いつものように、ユーディットは歌を口ずさみながら、手料理を食卓に並べていく。今日のオムレツはなかなかきれいに焼けた。パンの焼き具合も上々だ。
「ユーディット」
 自分が呼ばれたとは思わなかった。男性にそんな風に呼ばれた事がない。
 驚き向けた視線の先で、声の主と目が合う。
「ユーディット。結婚しよう」
「・・・はい」
 呼吸も心臓も停まったかと思った。今まで見たこともないくらい幸福そうな笑顔が目の前にあって、一泊遅れて動き出した心臓と一緒に感情が一気に押し寄せてくる。意思とは関係なしに、足が回れ右していた。
「あっ・・・!?」
 腕が引かれて、バランスが崩れる。転ぶ前に抱き止められた。逞しい胸が目の前にある。自分では顔を上げることもできずにうつむく顎を、武骨な指が捉えて上向かせる。
 あっ、と思う間もなく、唇が奪われていた。
 柔らかく重なった唇が離れて、悪戯っぽく笑う瞳に覗き込まれる。「愛してる」と囁く唇が、もう一度唇に重なる前に、ユーディットは慌てて目の前の胸に顔を埋めた。困ったように笑う気配があったけれど、それにさえ余裕が伺える。唇にされる筈だったキスは、ユーディットの髪に捧げられた。
 それからしばらく、ユーディットは頑なにミュラーの軍服に顔をうずめて、彼が「遅刻する」と苦笑いするまで、しがみついていた。


 喪が明けて、新帝国暦4年10月。ユーディット・フォン・アーベラインはミュラー元帥夫人となった。
 結婚しても破天荒ぶりは相変わらずで、ユーディットは夫の名前が長くて呼びづらいからと、「ミュラー」と呼び続けた。

 ユーディットはナイトハルト・ミュラーとの間に一男二女を儲け、娘たちはそれぞれ、アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムとフェリックス・ミッターマイヤーの元に嫁いでいるが、それはまた別の物語である。
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