銀河英雄伝説

□鉄壁に遊ぶワルキューレ
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薔薇と菓子パン


 ある日軍務尚から戻ると、最近では見慣れた(顔馴染みになったとさえ言える)白馬が庭先で草を食んでいた。それだけでもう、誰が家にいるのかわかってしまう。困ったな、と思う反面嬉しいと感じている自分がいる。
 家に帰ると彼女がいる。それを当たり前のように感じていた。
「今日もお見えです」
 言われなくてもわかっている。主の留守中に、我が物顔で軍支給の仮邸に上がり込んでいるのは、あの伯爵令嬢に違いない。
「サロンか?」
 はい、と答える家令に「すぐ行くとお伝えしてくれ」と返して、ミュラーは自室へと向かった。少し早足になる。階段を3段飛ばしでかけ上がりたいのを、これはさすがにこらえた。
 上着を放り投げ、腕時計を外して顔だけ洗う。シャワーでも浴びたいところだが、そんなことをしていれば、待ちくたびれたワルキューレは帰ってしまうだろう。汗を吸ったシャツだけ手早く着替えた。
 サロンにはユーディットがお茶の用意をして待っていて、やって来たミュラーを立ち上がって出迎えてくれる。
「フロイライン、お待たせして申し訳ありません」
 勝手に上がり込んだ客に、出迎えられるというのもおかしな話だ。
「ご苦労だったな。ミュラー。さぁ、そこへ座るといい」
 ミュラーは「はい」と素直に従う。どちらが館の主かわからない。
「これは我が家の庭で栽培している薔薇のジャムだ」
「薔薇、ですか」
「うん。卿に食べさせたくて、持ってきた」
 小ぶりのデニッシュと一緒に勧められる。薔薇は見るものだと思っていたが、こんな期待に満ちた顔で見られては、食さないわけにはいかない。
「…いただきます」
 さくさくのデニッシュは食感もさることながら、ジャムの香気を邪魔しない優しい味で、甘すぎず、意外に美味だった。
 表情に出たのだろう。見守っていたユーディットの顔が、ほっと綻ぶ。
「茶葉はユーハイムの…いや、いい。紅茶だ」
 茶葉について説明をしようとして、ユーディットは苦笑してやめた。美味しく飲めればいい。
「珈琲よりは紅茶が合うと思って、持ってきた」
 この調子で、ミュラーの居宅にはユーディットが持ち込んだ茶器やら茶葉やらが増えている。家にいること自体が少ないミュラーだ。紅茶よりは珈琲を好む方だし、せっかく頂いても一人では飲みきれないと、一応注意らしきものはしたことがあるのだ。するとユーディットは
「わたしが飲むからいいんだ」と、さも当然のように言い切った。
 呆気に取られて、反論出来なかったミュラーの家には、それからもユーディットの私物が増え続けている。副官のドレウェンツには、そのうち乗っ取られますねと笑われた。
(ま、それもいいさ)
 生家が賑やかだったから、誰もいない家に帰るよりは今の方が余程いい。ミッターマイヤー上級大将のように、自分もいつか家庭を持てればいいと思っている。
 妻と、子供が待つ家。
 琥珀色の液体の中に、夢を描いて、その夢に出てくる妻の姿が、向かいで微笑む令嬢の姿と重なって見えた時、ミュラーは慌てて紅茶を飲み干した。
「お代わりは?」
「いただきます」
 律儀にカップを差し出すと、手ずからお代わりを注いでくれる。
「思ったより、いけたろう?」
 視線が示すのは空っぽの皿だ。
「はい。美味しくいただきました」
 満足そうに、ユーディットは微笑んだ。
「先日、今年一番のジャムをグリューネワルト伯爵婦人にお持ちしたら、お礼にとジャムに合わせてデニッシュを焼いてくださったんだ」
「え?」
 さぁ、と自分の血が下がっていく音を、ナイトハルト・ミュラーは聞いた。
「ま、さか…」
 今、自分が口にしたのは…
「アンネローゼ様が下さったものだよ。最初はスコーンにつけてみたんだが、スコーンにはベリー系のジャムの方が合うなって……ミュラー? どうかしたのか?」
「い、いえ…」
「まだ残っているから、朝食に食べるといい」
「あ、はい」
 ユーディットの声が遠い。衝撃が大きすぎて、現実感がどんどんなくなっていく。
 心酔するローエングラム元帥の、何より大切にされているであろう姉君グリューネワルト伯爵婦人アンネローゼの、手作りのデニッシュを、元帥を差し置いて自分などが口にしてしまったのだ。
 キルヒアイスの死後、ラインハルトがアンネローゼに会っていないのは知っている。それなのに、それなのに自分などが…!
「フロイライン・アーベライン!」
 わしっと、ユーディットの手首を掴んでいた。驚いて目を丸くするユーディットに、恥じらい揺れる乙女の瞳に、気づく余裕など微塵もない。
「是非、ローエングラム閣下にも、この菓子をご賞味頂きたいと思いませんか!?」
「え…」
 当然、ユーディットの困惑にも気付かない。
「お願いします!」
 でないと明日から会わせる顔がない。
 必死に言いすがるミュラーに、ユーディットは戸惑いながらも首を頷かせた。



この時期ユーディットはアンネローゼと親しくなさそうなんで、無茶苦茶な設定なんだけどね。
ラインハルトに引け目を感じておたつくミュラーが書きたかった。

追記
官舎に家令がいるのもおかしいのかな? 執事とかではなく、ハウスキーパーとしてですね、失業者救済の意味も含めて、留守勝ちな自宅の管理を任せる人と食事を作りに来る人くらいはいてもいいと思って(^^;

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