銀河英雄伝説

□鉄壁に遊ぶワルキューレ
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謀略


 リップシュタット戦役と呼ばれる帝国内での権力闘争があったことなど、貴族のお嬢様方にとっては大した事件ではないらしい。クーデターの結果として、彼女たちの生活の地盤が揺らいでいることなど、知ろうとさえしないのだから。
 クリスマスローズが見頃を迎える頃、ユーディットのもとへは毎年、友人から花やら菓子やらが送られてくる。
 人類が地球にのみ生活基盤を持っていた20〜21世紀。東洋の乙女たちに流行った風習がある。2月14日に想い人にチョコレートやちょっとしたプレゼントを贈り、想いを伝えるのだという。バレンタインデーと呼ばれる風習が、宇宙に出て数世紀を数えてもなお、婦女子の間には残っているのだ。もっとも、奥ゆかしい婦女子が気持ちを伝える手段としていた20世紀からは、大分意味合いが変わってきている。
 ようはただのお祭りだ。友人同士でチョコレートを交換しあい、見栄を張り合ったり、偶像崇拝よろしく憧れの人物に送り付けたりして喜んでいる。未だにこんなことをしているのは帝国でも若い、一部の貴族のお嬢様だけである。
 ユーディットのもとへ来るバレンタインプレゼントも、一時期に比べれば大分減った。それでもまだ、根強いファンがいる彼女の事。軍籍を退いて家で暇をしているとなれば、黄色い声を上げる少女達が憧れのお姉様に貢ぎ物を携えやって来る。
 オーディンで今一番流行っている店のチョコレートだの、皇宮に出入りしていたコックのケーキだの、食べきれないほどの菓子がやって来る。大抵は、持参した友人や同席した友人と一緒に、その日のうちに片付けてしまうのだが、ホールのケーキが同じ日にいくつも持ち込まれると流石に胃に余る。
 キッチンに並ぶケーキの箱に、ユーディットはさてどうしたものかと首を傾げた。が、1分もしないうちに、ケーキを箱ごとバスケットに詰め、自家用車に乗り込んだ。
 ナビを操作して自動運転をオンにする。エアカーは振動もなく走り出した。
 途中、ユーディットは車に登載された端末を操作して、テレビ電話を入れた。しばらくして画面に現れた人物に、「ミ」と発音しかけていた口を閉じる。
「なんだ、お前か」
『お言葉ですね』
 画面に現れた壮年の軍人は、気分を害した風もなく苦笑した。
『閣下は会議中で、しばらく戻りませんよ』
 帝国軍大将の執務室へ直接電話をしてくる非常識を、さも当然のように受け流し、更には用件を確認することもない。ユーディットが用のあるのはナイトハルト・ミュラーただ一人であることは、ミュラー麾下の幕僚には自明だったからだ。
 ヘイゲン准将の言葉に、ユーディットはちらりとナビを見た。標準時間であと15分後には、元帥府に着いてしまう。本の少しだけ考えて、ユーディットは口を開いた。
「ミュラーじゃなくても構わないんだ。15分程で着く。誰かロビーに寄越してくれ」
『は?』
 ヘイゲンは我が耳を疑った。ミュラーじゃなくても構わない、とはどういうことだ。そんな発言、断じて本人の耳に入れるわけにはいかない。
「では、頼んだぞ」
 誰を相手にしていても、およそ遠慮というものをしないユーディットだが、相手がかつての部下ともなれば、その傾向はますます顕著になる。ヘイゲン准将の言うことなど聞かずに、一方的に通信を切った。切られた方はおおいに悩んだが、相手が相手なだけに放置するわけにもいかないし、迎えに出す人員も限られてくる。結局ヘイゲンは悩んだ末に自らロビーへかつての主人を出迎えに行くことにした。
 ヘイゲンの苦悩など関係なしに、ユーディットを乗せたエアカーはナイトハルト・ミュラー大将の事務局がある元帥府ビルに到着する。駐車禁止の正面玄関に堂々と車を停めると、一応はロビーの様子を伺いながらユーディットは車を降りた。


 女っ気のない官庁街に、突如現れた妙齢の女性に、見張りの兵士達は訝しげに眉をひそめて顔を見合わせた。誰かを待っているらしいが、場所が場所なだけに看過もできない。
 なんだか身分のありそうな、雰囲気のある美人で声がかけづらいが、そこは職務である。
「失礼、フロイライン」
「…ち」
 育ちの良さそうな美人が、まさか舌打ちするなんて思いもしない。兵士は聞こえなかったことにする。
「あの、ここは駐停車禁止です。車を動かしていただけませんか」
 美しいご婦人は困惑したように小首を傾げ、鈴の転がるような美しい声で言った。
「困りました。ここで人を待っているのです。すぐ来ると思うので、待たせてはもらえませんか」
 職務中であろうと兵士も男だ。妙齢の美人の願いならば出来れば叶えてやりたい。しかし、旧体制下ならばいざ知らず、ローエングラム公爵の綱紀の前には、いかなる例外も認められない。
「申し訳ありませんが、規則ですので」
 そうですか、と残念そうに頷いた貴婦人は、ややあってから手にしていた大きなバスケットを兵士に差し出した。
「これは?」
 うっかり受け取ってしまってから、兵士ははたと危険物か否かの確認をする責務を思い出した。
 慌てる兵士に貴婦人は「お菓子ですわ」と上品に笑う。
「ミュラー大将幕下のヘイゲン准将にお渡しください」
 巷では、女性から意中の男性へショコラなど甘いものを贈る「バレンタインデー」なるイベントがあることを、この若い兵士は知っていた。
「ヘイゲン、准将、閣下、でありますか」
 この若い貴婦人とヘイゲン准将とでは、親子程も年が離れている様に見える。それにヘイゲン准将は妻帯者だ。妙なことに巻き込まれたと、血の気が引いていく。
「あの、失礼ですが、フロイラインはヘイゲン准将閣下とはどのようなご関係ですか」
 用は済んだとばかりに車に乗り込もうとしていた貴婦人は、一瞬考えて
「娘です」
 と微笑んだ。
 間が空かなければ、或いは信用したかもしれない。兵士がヘルメットごと頭を抱えたくなっている事など知りもせず、貴婦人を乗せたエアカーは音もなく去っていった。


 さて、ユーディットと入れ違いに玄関へ現れたヘイゲンは、見張りの兵からケーキ入りのバスケットを受け取った。
 明らかに高級品とわかるケーキの包み紙には、“大好きなユーディットお姉さまへ”というメッセージカードまでついたままだ。
「ああ、そういうことか」
 ミュラーじゃなくても構わない訳が分かってほっとした。
「あのっ、閣下にはお嬢様がおいでで?」
「いや、子供はいないが。何か?」
「いえっ! 失礼しました!」
 この時は、きっちり敬礼をして持ち場に戻る兵士の態度に腑に落ちないものを感じながら戻ったヘイゲンだったが、この日から妙な噂に悩まされることになる。


20130113
去年の書きかけに加筆修正。
気が早いけどバレンタインものです。
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