main


□wonder drug
1ページ/1ページ

 空気が揺れた。障子が開いて、冷気を纏った気配が立ち止まるのがわかった。彼か、彼女か。思案して、あのガキどもなら止まることなく真っ直ぐ枕元までやって来るだろうと思い直した。では、彼女か。こんな夜更けに家主の許可なく寝室に立ち入る人物は、他に知らない。大家とストーカーはもっと騒々しい。
 その姿を確認したくてうっすらと目を開けたが、和室の天井さえ見れずにまた目を閉じた。瞼が重い。顔が、身体中が熱くて痺れるような感覚にいい加減嫌気がさして、早くこのだるさを払い除けてしまいたかった。
 冷気が布団の横へさらりと座する音がした。彼女と共にやって来たカラカラという涼やかな音が枕元で止まる。腰までしか覆っていない掛け布団を首元まで引き上げられた。両手の指先まで中に押し込められて暑さが増した。不快に思っていると、額にひんやりとした柔らかなものが触れる。一瞬びくりとしたが、すぐに彼女の手だとわかった。
 一度も触れたことはないあの白く細い指を、熱く滲んだ瞼の裏に想い描く。包み込んで味わいたいと何度思ったかしれない。
「銀さん」
 控えめな声音で名を呼ばれて、渇いた唇が自然と緩んだ。身体は辛いが、見返りにこんな褒美が貰えるならたまには寝込むのも悪くない。
「神楽ちゃんはうちに泊まってます。移るといけないから」
 ワリィな、と答えようとしたが、ゼィゼィという息しか出て来なかった。チリリとした痛みが喉を通った。
「おでこ冷やしましょうね」
 カラリと氷が転がる音がして、少しあとに水気を含んだタオルが額に乗せられた。うっとりするほど気持ちがいい。
「他に辛いところないですか?」
 彼女の声があまりにも優しかったので、もう一度無理に重い瞼を持ち上げた。どうしても顔を見たかった。僅かに首を傾けて視線を向けた。黒いシルエットが身を乗り出して見下ろしている。妙の険しい眼差しとかち合った。
 声が穏やかだったものだから、てっきり表情も柔らかいものだと想像していた。俺に見られるとは思っていなかったのだろう、彼女はたじろいだあと、きゅっと唇を結んだ。
 心配すんな、ただの風邪なんだから。
 そう伝えたかったが、口にしたのは他の言葉だった。
「のろ……」
「はい?」
 聞き取りやすいように、妙が顔を近づけてくる。甘い花の香りがして、黒髪がさらりと鎖骨に流れた。身動きが取れないことをこれほど恨めしく思ったことはなかった。
「のろ、いらい……」
 喉がひりついて舌足らずになった。妙はちょっと首を傾げ、それから得心したように頷いた。
「ネギ巻きます?」
 あまりにも真剣な顔で言われたものだから、即答できなかった。あれだろ、お婆ちゃんの知恵袋的なやつだろ。ホントに効くのソレ? 臭いだけじゃないの?
 言いたかったが、声にはならない。これ以上辛い思いはたくさんなので、いらない、という意を込めて目を閉じた。
 彼女には伝わったようだ、ネギを持ってくるような気配はなかった。
「何か、して欲しいことは……?」
 不意に耳元で囁かれ、ぞくりとした。熱のせいではなかった。
 ゆっくりと瞼を上げて眼を動かした。先ほどとは違う穏やかに微笑む顔を間近に見て、些か安堵する。僅かに口角を上げると、つられて彼女の笑みが深まった。黙っていると、妙は右手を伸ばし、ひんやりとした手の甲で俺の頬をなぞった。顎を伝って、指先が喉元まで下りてくる。
 目が離せなかった。暗闇に慣れてきた眼が彼女の艶やかな唇の皺まで捉えていた。妙の手はそのまま布団に潜り込み、俺の二の腕を通り、それからゆっくりと手を絡み取った。柔らかく小さな手のひらに包み込まれて、冷たかった彼女の体温はしばらくして俺と同じ温もりになった。
「手、握っててあげますから」
 だから眠ってください。
 ずっと傍にいるからと暗に言われて、その言葉だけで急に眠気を催す俺は嫌になるほど単純だ。
 病気で気が弱ってるだけ、と自分に言い訳をした。病気なんだから、もう少しの間だけ甘えてみよう。
 朝になったら熱い湯で身体を拭いてもらって、それから桃缶が食べたいと言おうか。彼女には傍にいて欲しいから、新八に買いに行かせて。
 食べさせて、と言ったら、この美しい女はどんな顔をするだろうと思い、その顔を夢に見て瞼を閉じた。




20110916 miyako

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ