main


□まちがいさがし
1ページ/1ページ

校内の見廻りを終え職員室に戻ると、全蔵は自分の席に座る女生徒を見留めた。
彼女は彼の椅子を隣席の教師の机に寄せ、体をぺたりと付けて並んで座る銀髪を見つめている。
頬を染めうっとりと男を見上げる瞳は、まぎれもなく恋する女の眼差しだ。
全蔵は前髪で隠れた眉をこっそりと寄せた。
こんな彼女は、幾度見てきただろう。
初めは彼女が小学生の頃。あれが彼女の初恋であったことは間違いない。幼馴染みである彼女の恋を、全蔵はほとんど知っている。そのすべてに破れていることも。
またか、といささかうんざりする。どうしてこうも、報われない恋ばかりするのだろう。真性のMなのか。
放課後の職員室は、全蔵と彼らだけだった。部活も終わる時間帯で、当直の全蔵以外の教師も帰ったはずだった。…のだが。
全蔵は二人に近寄った。男の方が先に気づいて、あからさまに助かった、という表情をする。
「ほら、服部先生戻って来たから」
銀八が彼女の体を押し退けると、長く真っ直ぐに伸びた髪がさらりと揺れた。
あやめは振り向いた。
「もう戻って来たの?気が利かない男ね」
「いちゃつくなら余所でやってくんない?」
「誤解招く言い方やめてェェェ!図書アンケート作ってただけだから!」
確かに、あやめは図書委員だが。
全蔵は大袈裟にため息を吐いた。
「準備室でやればいいじゃん」
「ダメダメェェェ!!」
銀八は胸の前で腕をクロスさせ、大きなバツを振りかざす。男の慌て振りに、あやめが驚いて目を丸くした。
銀八が嫌がる理由を全蔵はわかっている。
準備室は男にとってもうひとつの自分の家で、そこで女生徒と長時間過ごすことには意味がある。そしてそれを許している女生徒は、ひとりしかいない。
もしかしたら、今も彼女はそこで男を待っているのかもしれない。
銀八の目が、眼鏡の向こうで泳いだ。
「えっと…散らかってるし」
本当に自分の家のつもりか。全蔵は銀八の残念具合に苦笑した。言い訳にしても、見苦しい。
しかしあやめは目を輝かせて、
「じゃあさっちゃんが片づ「あー準備室に忘れものしたかも。俺そのまま帰るし、服部先生あとよろしくぅー」」
銀八は図書アンケート用紙をあやめに押し付けると、そそくさと職員室を後にした。
銀八が去ったあとも、あやめはしばらく閉じた扉を見つめていた。
それからゆっくりと、銀八に渡された用紙を握り締めた。くしゃり、と乾いた音がした。
あやめは動かない。全蔵に背を向け、ぴんと伸びた背中が美しい。
「…懲りねーな、オメーも」
呟くと、あやめはゆっくりと全蔵を見た。見上げる瞳の色は幼馴染みを見る、ただの眼差し。
「全蔵に関係ないでしょ」
膨れる頬も尖る唇も、昔から変わらない。
それこそ全蔵は、彼女がおむつをしている頃から知っている。ランドセルはピンクがいいとねだったことも、徒競走で一位を取ったときの笑顔も、初めて作ったクッキーのいびつさも、怖いテレビを見たから一緒にいてと泣いた顔も。
根本のところで、あやめは何も変わっていない。
だが、全蔵の感情だけが変わってしまった。変わらないことを望んでいるあやめを前にして、芽生えた愛情を晒す勇気もなかった。
だから全蔵は、幼馴染みを演じる。傍にいるのが当たり前で、けれど異性にはならない身近な男を演じ続ける。
全蔵は苦笑して肩をすくめた。
「学校では先生って言えって、いつも」
あやめは顔をしかめた。だって、と一層唇を尖らせる。
「そう呼んだら、困った顔するじゃない」
「…しねーよ」
「…ほんと?」
見上げる瞳に、全蔵はどきりとした。
あやめの瞳は、かつて見た眼差しと同じだった。
全蔵が友達と遊びに行くとき、幼いあやめはいつもついて来たがった。あやめといると彼女から目が離せないため、全蔵は好きに遊べない。段々と面倒臭くなり、ある日全蔵は嘘をついた。
ごめんなー、今日は皆で勉強するからさー。
定期試験は終わったばかりだった。幼稚園に通うあやめにわかるはずがないと、中学生の全蔵は高をくくっていた。
しかし、あやめは疑っていた。
ぜんぞう、ほんと?
そう問う瞳の色は澄んでいて、疑うことすら哀しいと訴えていた。
その瞳が今、目の前にある。全蔵は冷たくなった拳を握った。
「何で俺が困んだよ。むしろ学校で全蔵呼ばわりの方が困るっつーの」
「全蔵って呼ぶと、口が緩んでる」
「緩んでねーよ。何だよ、俺に突っかかんなって」
「突っかかって来たのは全蔵でしょ。放っといてよ」
「相変わらずバカだなァって思っただけだろ。女は愛された方が幸せになれんだぜ?」
「そっちがバカじゃないの」
むくれていたあやめは、すい、と胸を張って腰に手を当てた。見上げているのに、見下した瞳をしている。
「好きでもない男に想われても幸せじゃない。私が欲しい愛じゃないと、意味がないもの」
全蔵は握る拳が冷えていくのを感じていた。自分を否定された気がした。
絶望で打ちのめされたが、同時にどこか誇らしくもある。
だから彼女は美しい。恋することを恥じない彼女は、どこまでも孤高で可憐だ。
全蔵は息を吐いて、ゆっくりと拳を解いた。
あやめを見据えて、口角を上げる。
「オメーのバカは死んでも治らねーだろうな。まぁいいや、好きなだけ追いかけてりゃいーよ」
笑う全蔵の顔はすっきりとしていて、あやめは呆れた。
本当にこの人は、私のこと何にもわかってないのね。
あやめはそっと肩を落とした。
私が初めて追いかけた男は全蔵だった。
物心ついた頃にはもう傍にいて、年の離れた兄だとは思えなくなったのは5才の頃。我ながら早熟な子供だった。
構って欲しくて、必死で後ろを追いかけた。笑ってくれる顔も、褒めてくれる声も、抱き上げてくれる腕も大好きだった。
そのうち子供扱いされるのが嫌になって、頭を撫でる長い指を払いのけた。甘い菓子で釣られる自分が悔しくて、納豆ばかり食べた。全蔵の隣で微笑む女の子を恨んで、そこは私の場所だと布団をかぶって泣いた。
そんなことを、この男は欠片も思い付かないだろう。だって私は、悟られないように隠した。知られたら、傍にいられないとわかっていたから。
私が誰かに恋をするたび、失恋するたびに全蔵は近く傍にいてくれる。報われない恋ばっかして、ほんとバカだなァと笑って髪を撫でてくれる。
子供の頃、一度は払いのけた温もりが今は愛しい。あのときはただ子供だったのだ。相変わらず報われない恋だけど、それでもいいと思えるほどには、私は大人になった。
私の報われない恋の初めは、貴方だったのよ。
そう言っても、貴方はまだ笑ってくれるかしら。変わっていないと貴方が思っている私は、こんなにも変わっている。
だったら、貴方もあの頃の貴方とは違う?
あやめは言葉を飲み込んだ。
期待してはいけない。同じ人に二度も失恋するなんて、きっと堪えられない。そのとき、髪を撫でてくれる全蔵は傍にいないのだから。
あやめは大袈裟に頬を膨らませた。
「バカバカうるさいわね、バカ。お詫びに何か奢りなさい」
「はァァ?振られた腹いせにやけ食いでもすんのかよ」
「まだ振られてないわよ!」
憤慨するあやめを、全蔵はハイハイ、とあしらった。
「奢るっつっても、俺当直だし。宿直室にあるラーメンくらいしかねーぜ?」
「いいわ、納豆ラーメンで我慢してあげる」
「納豆がねーよ」
「家庭科室の冷蔵庫に常備してあるわ」
「すんな常備!」
職員室を出て、歩きながら言い合った。
いつの間にか陽は暮れている。校内には誰もいない。おそらく、国語科準備室で待ち合わせをしていた彼らも。
全蔵は横目であやめを見た。
廊下の窓ガラスに映る彼女の横顔は、真っ直ぐに前を見据えている。闇に溶けるその瞳も、今は眼鏡の奥に潜んでいた。全蔵はほっとした。
間もなく、あやめは幾度めかの恋に破れるだろう。全蔵はまた、いつものように慰めるだけだ。異性にはなれない幼馴染みとして。

いつかきっと、あやめを愛し愛される男が現れるかもしれない。
そのときに、この恋心は終わるのだろうか。ちゃんと終われるのだろうか。
全蔵は瞼を閉じた。
どこまでも孤高で可憐な彼女の恋心が、羨ましいと思った。




20120130 miyako
バカはおまえだ全蔵。

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ