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□澪標
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志村妙から職員室の電話に連絡があったのは、昼休みだった。
インフルエンザでした、と告げられ、銀八は口の中のドーナツをゆっくりと咀嚼した。
今朝、新八から風邪で休むと伝言を受けた。そのあと一人で病院へ行ったとは聞いていた。
電話口で、銀八は眉根を寄せた。
「今、どこ?」
こほこほと咳をしたあと、少し間があった。その間が銀八の不安を煽る。
「…病院、です」
マスク越しのくぐもった声だけで、熱い吐息が伝わる。
銀八は、ようやくドーナツを飲み込んだ。味がわからなくなるほどに噛んでいたらしい、期待した甘味はなかった。
銀八は壁の時計を見た。昼休みはもうじき終わるが、今日はもう現国の授業はない。
帰りのHRまでに戻って来れば問題ない、と銀八は受話器を持ち直す。
「大江戸病院だろ?迎えに行く」
「…え?」
「すぐ行く」
「タ」
タクシーで帰ります、という返事は容易に想像できた。銀八は彼女の言葉を遮った。
「タクシーの運ちゃんにうつすかもしんねェだろ」
「…せんせいにだって」
「俺は平気、バカだから」
そんなの、と絶句する妙の気配がした。銀八はそっと苦笑する。そうだ、そんなの屁理屈だ。
ただ俺が行きたいだけなんだよ。
「すぐ行く」
もう一度、同じことを繰り返す。
問答無用と言わんばかりに、受話器を置いた。

熱でぐったりとする妙を抱え上げて、銀八は古びた鉄の階段を上った。
カンカンと音が響く。耳慣れないその音で、妙がうっすらと目を開けた。
「……、どこ…?」
自分のアパートではないと、すぐにわかった。銀髪の向こうに見える景色が違う。
「せんせい…」
妙は困惑した。私は夢を見ているのだろうか?
銀八の鋼の腕が自分を抱え、暖かい胸が傍にある。視線を上げると、マスクをした銀八が見下ろしていた。眼鏡の奥の優しい蒼色だけが見えた。
銀八が部屋の鍵を開けている間だけ、下ろされた。
狭い玄関で靴を脱がされ、再び抱え上げられる。そこで初めて妙は、男の首にしがみついた。
「…志村サン」
彼女の意識が朦朧としていることはわかった。だからこの行為に他意はない、と銀八は自分を戒める。
病院に着いたとき、彼女は隔離された部屋でじっと座っていた。
同僚の坂本から借りた車に妙を乗せ、迷わず自分のアパートに連れてきた。他の選択肢は、最初からない。
万年床の布団に妙を横たわせ、絡む腕をそっと外した。名残惜しさが躰中を巡った。
首まで掛け布団を引き上げ、赤い頬に手の甲で触れてみる。銀八の手の冷たさで、妙がゆっくりと瞼を上げた。
瞳が何かを訴えて揺れる。しかし呼吸が荒く、声を出そうとするとすぐにむせた。
「しゃべんなくて良いから」
おまえの言いたいことはわかる、と銀八は真剣な面持ちになる。
「けど、新八にうつすのはやだろ?」
妙は黙って銀八を見ている。熱で潤んだ瞳が誘ってるみたいだ、と不謹慎なことを考えた。
「たぶん新八にはうつってねェよ。おまえのことだから、風邪だと思った瞬間からあいつの予防は完璧だろ」
数日前から、志村姉弟はマスクをしていた。風邪かと訊いたら、予防ですと答えたのは弟の方。
「もし新八にうつってたら、二人まとめて面倒みてやる」
心配すんな、と妙の髪を撫でた。子供みたいに熱くて、その辛さを慮る。氷枕のような気の利いたものはないので、ひたすらタオルで冷やすしかなかった。
氷水を作ろうと立ち上がる銀八の手を、妙の指先が制した。柔らかい熱にどきりとする。
「…ん?」
中腰のまま上から見下ろすと、重そうな瞼が微かに揺れた。
「冷やしてやっから。ちょっと待ってろ」
安心させるために顔を近づけると、薄目を開ける黒曜の瞳が銀八を見つめた。
意識があるのか、ないのか。微妙なところだな、と男は柔らかな熱を握り返す。大胆に触れることを躊躇い、指先だけを緩く掴む。
せんせい、とマスクの下で唇が動いた。同時に、握り込む指先が動く。
「さわってて…、せんせい」
掠れてはいなかった。籠ってはいるが、いつもと変わらぬ凛とした声が紡ぐ言葉に、銀八は耳を疑った。静かに息を飲む。
妙の瞳が、爽涼な光を帯びた。
「…さわってて」

ひどく愛しいものがここにある。
銀八は熱く儚げな手を、その熱を自身の両手で冷ますように、優しく包み込んだ。




20120321 miyako

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