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□讃歌
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私の一番古い記憶は、弟が産まれた朝。暑い日で、朝早くから蝉が啼いていた。
産まれたばかりの弟は全身が赤黒くて、顔はしわくちゃだった。開かない眼の縁が濃くて、やたら大きい。決して可愛いとは思えずに戸惑った。産まれるまでずっと、赤ちゃんは可愛いと両親から聞かされていたからだ。
父上に妙が産まれたときとそっくりだと微笑まれて、一層複雑な気持ちになった。
当時の私には聞かされていなかったが、母上は産後の肥立ちが悪かったらしい。最初の面会以降、しばらく会えなかった。
出産は家で行われていたので、会おうと思えば会えたかもしれない。けれど母上の傍には弟がいた。弟を可愛いと思えない自分が後ろめたく、母上の体を慮るふりをして避けた。
避けていることを父上に悟られたくなくて、しきりに二人のことを話題にしたことを覚えている。父上は黙って聞いていた。
きっと何もかもお見通しだった。そんな顔をしていた。

広い家だが、弟の泣き声はいつも聴こえた。
のちに私が彼の泣き声だけでお乳かおしめか、それとも眠たいのかがわかるようになったのは、このときの経験のせいかもしれない。
顔を見ずに声だけを聴いていたおかげで、その微妙なニュアンスの違いがわかるようになった。あとは、時間だ。お乳を欲しがる時間の間隔、眠っている時間帯を知ると、よりわかるようになった。
離れているのに、隣にいるように思えた。

鈴虫が鳴く頃、ようやく母上は回復した。
驚いたことに、弟はちゃんと人間になっていた。黒い瞳がくるくると動いて、私を見上げている。
良くなったとはいえ、母上はまだ床にいた。
隣には弟が寝ている。私は母上を独り占めしている彼を羨ましいと思った。
けれど、奪いたいとは思わない。
心では母性を求め、しかし頭では姉であることを理解している。
小さな葛藤が起こっていたが、幼い私にはその正体がわからない。

得体の知れない薄霧を晴らしてくれたのは、弟自身だった。
ある日、母上を探して寝室に行くと、弟が一人で寝ていた。顔を覗き込むと、またあの大きな瞳で私をじぃっと見た。
つい、まじまじと見下ろした。
家中に響き渡る声で泣いている子とは思えないほどに小さい。この体のどこからあんな声が出るのだろうと考えた。
何もかもが小さくて、今更ながら、指がちゃんと五本あることにすら感動した。
気がついたら、手を伸ばして触れていた。
緩く握る拳を撫でると、ひどくすべすべとしていた。
その気持ちよさにうっとりとしていると、小さな手がふにゃりと指を開く。
瞬く間に、私の薬指が短い指に囚われた。
「あっ…」
思いの外、力強かった。思わず手を引きかけたが、弟は離してくれなかった。
小さな手に包まれて、私の指先はじわりと熱を持つ。
「……しん…、ちゃん…?」
黒い瞳が私を見上げている。私だけを見て、その大きな黒曜が笑った気がした。
私ははっとする。
――可愛い。
思わず微笑んだ。弟を可愛いと思える自分が嬉しかった。
そう思わせてくれる新ちゃんが愛しかった。


赤ちゃんはその手に幸福を握りしめて産まれてくるという。
新ちゃんが持って産まれてきた幸福を、最初にわけてもらったのは私かもしれない。


二番目の記憶は、安らかに眠る母上の顔。父上は私と新ちゃんに包み隠さず見せた。
自ら死に化粧を施す父上の手元をずっと見ていた。
うつむく父上の眼から雫が零れ、母上の頬を濡らす。手元が狂い紅が歪んでも、母上は綺麗だった。微笑んでいるように見えたのは、湾曲した紅のせいかもしれない。

私はずっと、新ちゃんの手を離さずにいた。
母上が亡くなったことを理解している幼い弟は、静かにすべてを見ていた。
侍の父が流した涙と、笑みを浮かべて眠る母。その異常さと特別な儀式を、真っ直ぐに受け入れているようだった。
新ちゃんは、しきりに私を見上げた。唇を咬み、瞼を伏せる姉を心配している気配がひしひしと伝わってくる。
これではいけない、と思った。
母上の死を嘆くよりも、悲痛な表情の私を気遣っている。新ちゃんにはちゃんと、母上の死を哀しませてあげなくてはいけない。
けれど私は何も言えなかった。ただ、小さな柔かい手を固く握った。
握り返す力は幼いながらも男の子の強さで、はっとした。守りたいという決意と、支えられているという実感が交差する。
私はこのとき、確かに弟に励まされていた。
幼い新ちゃんはその言葉を持ってはいなかったけれど。


守りたいと願うのは、自分のためだと気づかされる。
父上を助けて新ちゃんを守るという行為は、その人たちを想う一方で、私のためでもあった。
二人がいなければ寂しい。二人が辛いと私も辛い。二人が大切に想うものは、私にも大切なもの。
愛する人に健やかに傍にいて欲しい。
それだけで私は笑っていられる。

守るものがある私は、とても強いのだから。
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