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□夏の前日
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空気ぬるいなァ。
隣を歩く銀八の呟きが聴こえる。妙は担任の横顔をそっと盗み見た。
男の気だるげな眼差しは薄曇りの月夜を眺めている。妙もつられて夜空を見上げた。今宵の月は満月に近い。雲がゆっくりと流れている。
独り言なのか話しかけられているのかの判断に迷い、結局返事をしなかった。そもそも、一緒に夜道を歩いているこの状況すら妙には飲み込めていない。


ゴールデンウィーク中、妙はバイトをたくさん入れた。受験生である自覚はあるが、まだ焦りはなかった。
クラスメイトたちにもそんな気配はなく、何より銀八が誰よりものんびりしている。3Zの生徒たちは、担任のそんなところばかり見習った。
妙は連休中だけの短期バイトとして、携帯ショップのキャンペーンガールをした。今日がその最終日だった。
指定された制服を着て、ショッピングモールの入口でティッシュと風船を配る仕事だった。
常に笑顔で声を出すということや立ち仕事であることよりも、初めはその制服に慣れなかった。
白いミニワンピースだった。胸には携帯会社のロゴとマスッコトキャラクターが描かれていて、白のロングブーツと合わせると可愛い。
だが、思った以上に短いスカートが恥ずかしかった。
先輩アルバイトの女性から、これも履いてね、と渡されたショーツも白だった。スカートの中が見えることが前提なんだと思うと、不安が増す。
しかし仕事を初めてしまえば、気にならなかった。
風船目当てだからだろうか、客はほとんどが子供連れの家族で、妙の心は次第に癒される。子供の目線にしゃがんで風船を渡すと返される、恥ずかしそうな視線やはにかむ笑顔が可愛かった。
休憩中にこっそり、同じ短期バイトの子と制服姿の写真を撮り合った。一生に一度だと思うと、何でも記念になる。
最初に感じた不安は消えていた。
四日間、瞬く間に過ぎた。
最終日は夕方までの勤務だった。閉店まで客寄せをしていても、携帯会社の都合上、当日中に客との契約はできない。
給料は四日分を現金支給となっている。
退勤まであと十分。
帰りに買い物をして帰ろうかと考えていたところで、おねーさん、と声をかけられた。

「風船くんない?」
背中からかけられた声に、妙は笑顔で振り向いた。若い男の声だったので、その子供に手渡す心づもりをして、いつものように満面の笑みで応えた。
男の顔を見て固まった。
「白いやつがいいなァ」
妙が束に持つ風船の中から、銀髪の男は白色を指さした。目が合うと、男はにんまりと笑う。
「おねーさんの服とおんなじ、白ちょーだい」
「……先生」
妙は笑顔を解いて、真顔になった。
「隠し子が?」
「は?」
「どこにいるんですか、マダオの遺伝子は」
妙はきょろきょろと辺りを見回して、
「いないですね、天パの子」
「初めからいませんよ」
「お母さんに似てストレートの子ですか」
「……だと、いいけどね」
「夢見んなボケ」
妙はにっこりと笑った。
「風船はお子様限定ですので、差し上げられません」
営業口調で言われ、銀八はぼりぼりと頭をかいた。
何でもない顔をして、実は密かに傷ついている。妙に似た黒髪の子を想像したとたんに本人から全否定されれば、三十路の男でも心に刺さる。
Sは打たれ弱いんだよ、と銀八は唇を尖らせた。
しかし打たれたことは隠す。
「あのさァ、携帯変えたいんだけど」
銀八はジーンズのポケットから携帯を取り出した。
「どうしたらいいの?」
「…どう、って」
妙は瞠目する。
てっきり、通りすがりにからかわれただけだと思っていた。まさか本当に客だったとは。妙は苦笑した。
妙に訊くのは筋違いではあるが、仕方がないのかもしれない。銀八が昨今の携帯事情に疎いことは有名だ。
男は持ち物には無頓着で、執着もこだわりもない。使えれば何でもいいので、いつまでも古いものを持っている傾向がある。
携帯も古すぎるために、写メールなどの受信ができないと聞いたことがある。携帯サイズ以外では、銀八の携帯では容量が大きすぎて再生できないのだ。
「ついに壊れましたか」
妙が尋ねると、銀八は頷いた。
「バッテリーが限界みたい」
七年持ったからねェと言うと、妙は大きな瞳を一層見開いた。
「七年!私が小学生のときから持ってるんですか!」
「まだ二台目だもん」
銀八の表情が情けなくて、妙は笑った。大袈裟に驚いたことが気に障ったのだろうか、子供みたいな拗ね方をする男が可笑しい。
「わかりました、受付まで案内しますよ。あとこれ、」
妙はティッシュを差し出した。
「キャッシュバックのクーポン入ってますから」
妙は銀八を促して歩き始めた。勤務時間はあと数分あるが、客を案内しているのだから、多少持ち場を離れても問題ないだろう。
携帯売場は妙の持ち場から見える位置にある。二人が着くと、女性店員が笑顔で歩み寄ってきた。
「いらっしゃいませ」
「機種変のお客様です」
妙の言葉に、その女性は目礼した。銀八と変わらない年齢の彼女は、このショップの店長だ。勤務初日に挨拶をしたので、妙は覚えている。
「機種はお決まりですか?」
銀八を振り向く彼女を見ながら、妙は立ち去ろうとした。
その手を銀八が素早く引っ張った。
「ちょ、どこいくの」
危うく風船を放しそうになり、妙は慌てて銀八を仰ぎ見る。
「仕事に戻るんですよ」
「俺一人じゃわかんねーよ。――ちょっ、待てって」
男の手を振りほどこうとするが、力強く握り込まれる。妙は眉根を寄せて銀八を見上げた。
男は悪びれもせずに、へらりと笑う。
「一緒に選んでよ」
「何で私が」
「いっつも手伝ってくれんじゃん」
「ここは学校じゃありませんし、私はバイト中です」
「えーケチ」
投げ飛ばしてやろうか、と妙がこめかみをぴくりとさせたところで、成り行きを見守っていた店長が口を開いた。
「お知り合いですか?」
「生徒です」
笑顔で答える銀八に、妙は訳もなく苛立つ。男の笑顔が、いつもより爽やかに見えたせいだとは気づかない。
苛立ち紛れに、つい口にした。
「教員試験に受かったことで、一生分の運を使い果たした天パです」
「ひどっ!素直に先生ですって言えないのォ?」
「どの口が言いますか、生徒に迷惑かけて」
「志村にしかかけてませんー」
「自慢気に言・う・な!」
腕を捻り上げると、イテテテテ暴力反対!と銀八が声を上げる。
身体をひるがえしたところで、二人を唖然と眺めている店長に気づいた。妙は慌てて男の腕を放した。
ここは人が往来する店内で、自分はそこの制服を着た人間だ。それが客と思われる男の腕を捻り上げている。どう見ても異様な光景だと、ようやく気づいて冷や汗をかいた。つい、学校にいる気分になってしまった。
しかも、と妙は自分の腿を見下ろす。
こんな短いスカートを履いて、何とはしたないことか。
妙の顔は真っ青になり、次第に真っ赤になった。
「…すみません」
頭を垂れて謝罪を述べると、意外にも店長は苦笑した。あまりにも突飛なことが一瞬で起きたので、怒る気も失せたようだ。
幸い、周囲の他の客も面白がって見物している。
妙はほっとした。
「あなたの勤務時間はもう終わりよね?」
店長は笑顔で言った。
「残業手当て出すから、お客様についてあげてくれる?」
断れるはずがなかった。
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