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□破滅的Passion
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大江戸マーケットから出ると、はかったようにのそりと銀髪が目の前に立ちはだかった。妙はびくりとして足を止める。
銀時は無言で右手を差し出し、妙が両手に持つ買い物袋を奪うように取った。
戸惑う妙を置いて男は先に立って歩き出す。
妙は素直に従いたくなかった。男は何を考えているのか。あんなことがあったのに平然と妙の前に姿を見せた。いつもと変わらぬ様子で。
いえ、と妙はふらぶらと歩く背中をじっと見る。いつもは私が脅迫めいた小言を言わなければ荷物を持ってはくれない。なのに今日はまるで待ち伏せをして、我がもの顔で荷物を奪った。当然の権利のように。
男の気まぐれかもしれない。けれど、何も昨日の今日でなくとも。
妙は気まずかった。同時に少し不愉快にもなる。午前中の爽やかな陽射しに眼を細めた。
私の気持ちなんてどうでもいいんだわ、――あなたは。
不愉快だったが、買った食材や日用品を見捨てるわけにもいかない。朝のタイムセールを狙って早めに家を出たことが無駄になってしまう。
妙は小さく息を吐くと、重い足取りで男の後ろをゆるゆると追った。

ブーツの音に遅れて妙の草履の足音がついてくる。銀時は安堵した。何気ないふりをして、男の意識はずっと後方に向いていた。
彼女の歩くペースに合わせてぶらぶらと歩く。振り返らずとも、その歩幅は身体が覚えている。
昨日までは並んで歩いていた。妙はわざと遅れて歩いているのだろう。不自然さは拭えなかったが、あんなことがあったあとでは仕方がない。未経験だった妙は特に気持ちの整理がつかないのかもしれない。
銀時は待つつもりでいた。
自分と妙が築いてきた絆を考えれば、すぐにいつもの二人に戻れるだろうと楽観していた。
いや、と銀時はふと思い直す。
今までと同じ二人には戻れない。戻りたくはなかった。

恒道館の前で、銀時はようやく口を開いた。
「今日仕事?」
真正面から見据えられ、妙は大きな瞳を何度も瞬いた。明るい陽射しの中で、初めてまともに目が合ったことが、少しだけ気恥ずかしい。
「……そうですけど」
私のシフトと銀さんに何の関係が、といささか疑問に思い、まじまじと見返した。
銀時の蒼眼はいつものように生気がない。男は気のないそぶりで、ふうん、と呟いた。
「じゃ、あとで」
「え?」
瞠目していると、妙に買い物袋を押し付けて銀時はさっと背を向けた。
小さくなっていく背中を眺めているうち、妙の疑問は大きくなる。
いつもならここで男は必ず報酬をくれと言う。荷物を持ってやった礼に何か甘いもんよこせ、と無遠慮に家に上がるのがいつもの銀時だ。昨日もそうだった。
こんなにあっさりと帰っていく男は初めてだ。妙は眉根を寄せる。よくわからない一方的な約束も不可解だが、彼は一体何をしにやってきたのだろう。
思案しているうち、妙はまた不愉快になった。
男は礼を言う隙も与えてくれなかった。
それが一番、腹立たしかった。



「明日から来ないでください」
憮然とした面持ちで、妙は言った。

閉店まで勤務して、店の女の子たちと雑談をしてから連れ立って裏口から出た。
銀時が壁にもたれて座っていた。「あとで」のあととはこのことだったのだと妙は渋面になる。薄々わかってはいたが、あからさまに待ち伏せをされて不審に思った。
女の子たちは銀時を見留めると、遠慮がちにお疲れ様です、と口々に言って通りすぎる。りょうや阿音たちがいれば反応は違っただろうが、後輩の女の子たちは銀時と妙の関係を正確には把握していない。
彼女たちがいなくなると、妙は言った。
「明日から来ないでください」
恋人だと勘違いされては困る。
帰宅が真夜中や朝方になるのが妙の仕事だ。新八はいまだに心配しているが、仕事を変える気はないし、一度決めたことを簡単に覆すことのない姉の性格を弟はよく知っている。
たまに銀時が迎えにきた。すまいるに呑みにきて閉店まで居座り、一緒に帰ることがあった。
今日のように裏口で待たれることもあるが大抵は他の店で呑んだあと、ついでにふらりと立ち寄った、そんな言葉をいつも口にした。ほろ酔い顔の男を見れば嘘でないことはわかった。
だから受け入れていたのに。
妙は唇を結んだ。素面で、妙の退勤時間に合わせて待っているなど、銀時のすることではない。
「お願いですから、普通にしてください」
きりりと奥歯を噛み、吐き出すように囁く。
銀時の眉がぴくりと上がった。座り込んだまま妙を見上げている。
「……普通だけど?」
「普通じゃないです。昨日までの銀さんと違うわ」
「そうかァ?」
へらりと笑って、男はおもむろに立ち上がった。妙の言葉など気にもとめていない。聞いてもらえないことが悔しい。
「先に帰ってください」
妙は一歩も動くつもりはなかった。銀時は思い違いをしている。私はそんなことで甘えたくはない。
銀時は蒼眼を瞬いた。妙は思い詰めたような顔をしている。泣き出すのではないかと、わずかに怯んだ。
「――お妙」
銀時が腕を伸ばすと妙は素早く身を引いた。男の胸が締め付けられる。避けられたことが衝撃だった。
追い打ちをかけるように、妙の言葉が銀時を打ちのめす。
「責任なんて感じなくていいんです。私はそんなつもりじゃなかった。……今まで通り、ただの知り合いでいましょう」
妙の言葉は真摯で迷いがない。本気なのか、と銀時は激しく動揺した。
本気のはずがない。だって、おまえはずっと、
「結婚するまで貞操守るって言ってたろ」
知らず、低く強い声が出た。男の鋭い眼差しに妙はぎょっとした。
昨夜と同じ情熱が宿っている。
身の危険を察してさらに後ずさったが、男の鋼の腕に素早く囚われた。強く抱き締められる。甘い吐息が首筋にかかり、妙は震えた。
「俺はそのつもりだった」
「だって、あれは」
「初めは不可抗力だったけど」
銀時の腕が緩み、妙の女性的な曲線を柔らかく辿る。
「キスよりあとのことは、俺が望んだ」
「やめて……」
着物の上からなのに男の手の熱が伝わる。直に肌に触れられた快感を思い出す。妙は硬く眼を閉じた。
拳を握り銀時の肩や背を叩くが、男は愛撫をやめようとしない。
大きな手が妙の臀部を撫で、着物越しに内腿をかすめた。
「おまえ知ってる……? ここのホクロ、脚広げねェと見えなくて」
「やめて……!」
渾身の力で押すと、銀時の身体は離れた。すぐに抱こうとする男の力に抗うため、妙は腕を伸ばして熱い胸を押し続けた。
鋭く、艶やかな黒曜で銀時を睨みつける。
「私は処女だわ」
銀時の蒼眼が驚いたように見開き、それからゆっくりと優しい色になった。
「俺がやめたからなァ」
不覚にも妙はドキリとした。即座に、違う、と否定する。これは愛情なんかじゃない。
銀時の瞳が優しく見えるのは妙を愛しているからじゃない。男としての責任感からだ。ただの庇護欲だ。
銀時は勘違いをしている。愛情と履き違えて、余計なものを背負おうとしている。
私はそんなつもりじゃなかった。妙は喉に込み上げる熱いものを懸命に押し留める。うまく息ができなかったが、泣くことだけは堪えた。
彼を止められるのは私だけだ。
「私は、望んでなかった」
嘘をついた。
「なかったことにしたいの」
今でも鮮明に思い出せる。肌が覚えている。男の柔らかい唇と熱い舌、長い指の愛撫が妙の情熱を貫いた。
「だから普通にして。私たちは今まで通り、ただの知り合い」
最後まで毅然とした姿でいられたと思う。我ながら上出来だ、と妙は薄く微笑んだ。
微笑む妙を見て、銀時の腕が緩んだ。
妙はゆるりと抜け出し、男を置き去りにした。背にずっと視線を感じたが無視をした。

大丈夫、私は哀しくなんかない。
妙は唇を噛んだ。
私の未来に、あの人はいらない。
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