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□honey trap
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何か甘いものでも買おうと思いついた。確か今日は、駅前のドーナツ屋で百円セールをしているはずだ。
志村妙は、ネギや白菜が入ったエコバッグを肩にかけ直した。

店内に入ると、暖かい空気が呼吸をわずかに圧迫する。妙はマフラーを緩めた。
客は一列に並んでいる。ショーケース内のドーナツを自分でトレイに取り、レジまで運ぶというセルフシステムだ。店の奥にはテーブルがいくつかあり、イートインもできる。妙はテイクアウトにするつもりでいた。
トレイを手にしたところで、自分の前の女性が知り合いだと気づく。
彼女はすらりと背が高い。いつもヒールを履いているので、妙はわずかに見上げる形になる。学校では白衣を着ているが、今はモスグリーンのロングコートを羽織っている。人目を引く華やかな色が、彼女によく似合っていた。
高いヒールもロングコートも、妙には似合わない。その立ち振舞いは大人の色香を強調している。服装だけでなくスタイルも自分とは真逆の女性で、妙には眩しい存在だ。つい目を反らしたくなる。
彼女は妙に気づくことなく、真剣にドーナツを見つめている。かわいいな、と思わず微笑んだ。
「月詠先生」
声をかけると、彼女はゆるりと振り向いた。ああ、と声を漏らした。
「志村姉か」
「はい、こんにちは」
微笑むと、制服姿の妙とネギがはみ出たエコバッグを見下ろされる。月詠は優しく微笑み返した。
「学校帰りに買い物か。毎日大変じゃな」
「慣れてますから。それにご飯は別の人が作るので、買うだけなんです」
妙の料理の腕前が破壊的なことは有名だ。対して、弟の新八は家事が得意だということも。
そういうことか、と月詠は頷いた。
「ところで、ぬしは甘党か?」
「えっと…、普通に好きです」
「そうか、わっちは普段あまり食べんのじゃ」
「そうですか…」
ではなぜここに?と訊きそうになる。月詠の意図するところがわからず、妙は首を傾げた。
月詠はためらいがちに目を反らした。
「甘党のやつが好きそうなもんがわからんのじゃ。すまんが、わっちは時間がかかる。先に行ってくれ」
月詠の頬が、ほんのりと赤い。とたんに妙の胸は疼いた。
『甘党のやつ』が誰のことを指すのか、嫌でも気がついた。月詠にはそういう噂があった。彼を激愛している藤色の髪が綺麗な彼女も、月詠のことを訝しんでいた。
男は昨日から泊まりで出張に出ている。戻れば必ず学校に立ち寄るだろう。そのときに甘いものがあれば、彼は喜ぶに違いない。疲れていれば、なおさら。
妙は月詠を見つめた。
月詠は美しい。天の邪鬼なところもあるが、本当は慈愛に満ちた女性だと妙は思っている。特に女生徒に優しく、妙にもいつも親切だ。一部の女生徒に熱狂的な人気があり、バレンタインにはチョコをもらっている。教職員で一番の数だったらしい。
根は真面目で芯が通っている。それでいて天然なところもあり、純粋で照れ屋だ。そこが可愛い、と思う男性も多いだろう。
だから妙の胸は疼いた。彼が月詠に惹かれても、妙には止められない。今はまだそのときではないかもしれないが、可能性はいつだってある。
妙はゆるく微笑んだ。ちらりと後ろを確認する。
「わかりました、先に行かせてもらいます。でも後ろには誰もいませんし、まだゆっくり選べますよ」
「うむ、すまんな。ありがとう」
一礼して、妙は月詠を追い越した。ショーケースに視線を落とす。
妙にはいつも買うドーナツがあった。しかし今日はその半分も選ばなかった。代わりに、百円ではないが新作のドーナツを取った。
レジに向かう前に月詠のトレイを見る。一体何人で食べるつもりなのか、というほどの大量のドーナツが積まれている。しかし彼ならば喜んで食べるだろう。
そのときの男の笑顔が容易に想像できて、妙の胸はまた疼いた。
疼くだけでなく、今度は痛みを伴った。だが同時に、月詠につい見とれてしまう。どこまで綺麗で、かわいい人なんだろう。
―――ああ、こんなことをしている余裕は私にはないのに。
思いながら、妙は月詠のところまで戻った。
「先生、」
レジに向かったはずの妙が戻ってきたので、月詠は瞠目している。
妙は言った。
「このあいだ、銀八先生がそれ食べてるの見ました」
「え?」
「いちごのフレンチの」
月詠のトレイを指さした。ひとつだけ乗っている。
「甘党の人は、そういうの好きかもしれません。クリーム入ってるような」
「……なるほど」
「それじゃ」
会釈をし、妙は踵を返した。ゆるりとレジに並ぶ。
会計が終わり出入口に向かうとき、月詠がレジに向かう姿を見た。トレイの上には、妙が奨めたいちごのフレンチクルーラーが三つ乗っている。
妙は外へ出た。
北風が吹いて、妙の頬を強く撫でる。店内で暖まった身体が一気に冷えるようだった。マフラーを口元まで引き上げる。
歩きながら、潤む瞳を何度も瞬いた。
風が眼に滲みた。
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