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□湯屋恋物語・前
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志村妙が養護施設から出て理事の一人である登勢と暮らし始めたのは、彼女が十九歳になる年の早春だった。妙には忘れられない年になる。
前年、全国の至るところで大学紛争が勃発していた。三億円事件が世間を騒がし、郵便番号制が始まり、日本人が初めてノーベル文学賞を受賞した。銀幕のスターを見に映画館へ通い、テレビではアニメーションが多く始まっている。町中ではグループサウンズが流れていた。妙はそれらを、養護施設の中から見ていた。
銀髪の男に出会ったのは、そんな時代だった。



湯屋『登勢湯』は、東京の郊外にある。
宮型造りの建築と真っ直ぐに空へと伸びる煙突は、町の象徴となっている。創業は江戸の後期で、幾度かの改装を経てはいるが、以来変わらず町の人々に愛されてきた。
女主人は五代目で、町のゴッドマザー的存在だ。本名を綾乃というが、湯屋の名称登勢が彼女の愛称となっている。十五年前に先立たれた夫は、腕のいいペンキ絵師だった。
彼が描いた富士山は、色褪せることなく今も湯屋『登勢湯』の男湯にある。


湯屋の朝は早い。
営業時間は十五時から二十一時までだが、『登勢湯』では日祝のみ朝風呂を提供していた。週末になると、慌ただしく朝が始まる。
七時の開湯に合わせ、妙は五時に目覚まし時計をかけた。ジリリリリと鳴る鐘は、静まりかえった家中に響き渡る。登勢を起こしてはいけないと、妙は布団の中から急いで腕を伸ばした。小さな時計は枕元にあった。
登勢の家は湯屋の隣にある。二階建ての一軒家は、登勢と二人で住むには広い。妙は一人で二階を使っていた。
養護施設の理事もしている登勢は、義務教育が終わった子供を引き取り親代わりをしている。実子がいない登勢にとって、施設の子供たちは我が子同然だった。
今は妙一人だが、かつては近隣の大学生のために、下宿屋として自宅を開放していた時期もあったという。そのときの名残だろうか、妙の隣室には某かの私物が置いてある。かっての住人は男性のようだった。
部屋の隅には文庫本が山のように積まれ、窓際の壁には傷だらけの木刀が立て掛けてある。登勢の話だと、箪笥の中には服もあるらしい。
登勢はこの部屋を片付けようとはしなかった。妙も理由を訊かなかった。必要があれば、事情を話してくれるだろう。
妙が登勢の世話になって、まだ一月も経っていない。しかし妙はここが気に入っていた。仕事もこの町の人々も、とても心地がいい。
二階の窓を開ければ、目の前には桜並木が見える。道路を越えた向こうは川と土手だった。ここへきて初めての日、妙は一人でゆっくりと歩いた。気持ちがよかった。登勢は自転車で走るともっといいよ、と勧めてくれたが、妙は自転車に乗ったことがない。
桜はもうすぐ満開だ。妙は大きく息を吸った。早春の夜明け前、冷たい空気が胸に浸透する。
身が引き締まる思いがして、妙は凛々と背筋を伸ばした。


素早く布団を畳み、押入れの上段にしまう。薄い寝間着を脱ぎ、長袖のシャツに袖を通す。ボタンは首元までしっかりと留めた。スカートは裾が広がった膝丈のフレアスカートを履く。浴場に入るので、靴下は履かない。
世間ではミニスカートが流行っていたが、妙は流行りの服を持ってはいなかった。養護施設では手に入らなかったし、自由になるお金も時間も、まだ自分にはない。
鏡台の前に正座し、艶やかな髪に櫛を通した。高く結い上げ、ゴムでひとつにまとめた。装飾品は一切ない。服と同じ理由だが、特別欲しいとも思わなかった。妙にはもっと大事なものがある。
部屋を出るとき、燕脂色のカーディガンを羽織った。早春の夜明け前、外はまだ寒いだろう。
妙は階段を下りた。
洗面所に入り、素早く顔を洗う。水は冷たいが、気持ちがよかった。
歯を磨いていると、洗面台に置かれた登勢の歯ブラシが目に入る。それだけであたたかい気分になった。家族との生活とはこういうものなのだと、些細なことが教えてくれる。
―――ここに、弟もいれば。
妙は息を吐いた。考えても仕方がないことだ。離れて暮らすことは寂しいが、彼のためには正しい選択をしたはずだ。
洗面所を出る前に、もう一度鏡を覗き込んだ。さっと前髪を直し、襟元を整えた。
居間へ入り、茶箪笥の引き出しから湯屋の鍵束を取った。
廊下に出て勝手口に向かう前、登勢の部屋をそっと覗いてみた。襖は固く閉じられている。漏れる灯りもないので、まだ寝ているのだろう。
妙は勝手口から外へ出た。星が綺麗だった。今日はいい天気になりそうだ。
湯屋の裏口は暗い。妙は半ば手探りで鍵束を探った。指先で鍵の形状を確かめ、鍵穴に挿した。
朝風呂の準備を一人でするのは、今日で六度目になる。ようやく手際がよくなってきたと自分でも感じるようになった。もちろん、四十年この仕事をしてきた登勢には、遠く及ばない。
燃料室に入り、灯りをつける。薪は昨日のうちに準備していたが、念のためにもう一度数を確める。
薪は毎週業者が運んでくるが、その仕入れは先週から妙に一任されていた。登勢の仕事を手伝い始めて一月、養母はよく働く娘を後継者として育てる気なのだと、町の噂にもなっていた。
本当であればありがたいことだ。一緒に暮らし始めて間もないが、妙は登勢のことを信頼し、敬愛している。期待に応えたい。
燃料室の灯りを消し、番台に回った。脱衣場に入る。
カーディガンとシャツの袖を捲り上げ、躊躇いなくスカートの裾もたくしあげた。膝上で固く結ぶと、白い素足は腿まで露になる。はしたない姿だが、万が一見られたとしても登勢しかいない。見目よりも機能性が大事だと、妙はまったく気にしなかった。
まず男湯に入り、浴槽を洗う。妙はペンキ絵を見上げた。登勢の夫が描いた富士山は彼が亡くなったあとも手入れされ、色鮮やかなままだった。
傍で見ると圧巻だ。妙は本物の富士山を近くで見たことはないが、きっとこの絵のように立派なのだろうと思う。天気が良い日は、湯屋の先にある大きな坂を上ったところからも富士山が見える。こんなに遠く離れていても見えるのだから、その巨大さは妙には計り知れない。
浴槽を洗い終えると、続いて洗い場の床をタワシで擦る。『登勢湯』の浴室は広い。洗い場の蛇口は男女ともに十二ずつある。その蛇口のひとつひとつを丁寧に磨いた。水滴が一滴もついていない蛇口は、キラキラと輝いて綺麗だ。
女湯も同様に磨きあげる。それだけで一時間以上経ってしまった。妙は再び燃料室に向かった。
窯に薪をくべ、また浴室に戻る。浴槽に湯を張っていると、捲り上げたままのスカートに気がついた。素早くスカートの皺を伸ばす。
脱衣場に戻りながら、カーディガンとシャツの袖も元通りに直した。
脱衣箱は籐製の籠になっている。昨夜の客の忘れ物がないか確認をし、籠を逆さにして回る。女湯にはベビー寝台もあるので、布巾で綺麗に拭った。
脱衣場の床は高級な籐でできている。隅々まで箒で掃き、ようやく妙は一息ついた。
番台から暖簾をくぐり、下駄箱に下りた。下駄箱の松竹錠がすべて揃っているかを見て回り、自前のサンダルを履いた。客用の正面出入口と裏口を行き来することもあるので、両方の出入口にサンダルを置いている。
解錠して、正面扉に手をかけた。カラカラと控えめな音をたて、引戸は滑らかに開いた。空はもう明るかった。
湯屋前の道路には、わずかだが桜の花びらが舞い落ちていた。土手の方向を向き、妙は息を吸った。桜は土手の並木道から風にのって流れてきている。満開後には、道路が桜色に染まるかもしれない。
妙は瞳を閉じて、薄く微笑んだ。
彼女はこの湯屋が大好きだった。
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