T-SS


□全さち
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屋根伝いにやってくる全蔵を見て、私もやりたいと駄々をこねたのは、あやめが幼稚園に入る前だった。
家が隣同士、互いの部屋は向かい合っていた。家と家の壁も近く、屋根に降りてしまえば簡単に行き来できる距離にあった。それでも、隙間はある。子供の身体ではすり抜けてしまうくらいには空いていた。
全蔵はあやめの運動神経がいいことを知っている。知ってはいるが、到底許可できるものではない。全蔵自身子供だったので、何かあったときに責任が取れない。落ちてゆくあやめを掴む腕力もない。
危ないから駄目だと簡潔に言えば、あやめはわかりやすくふくれた。
だが、全蔵の言いつけを破ることはない。幼いあやめは両親と同じくらいに全蔵が好きだった。想い人に従順な人格は、この頃すでに形成されていた。
けれど次第に、全蔵と自分との差に我慢がならなくなるときがくる。
10歳になる頃だった。あやめの部屋から自室に帰ろうとする全蔵が、無性に羨ましくなった。追い付きたい、今なら追い付けると思えた。
「全蔵、」
背中に呼びかけた。
慣れた足取りで屋根を歩く全蔵が振り向く前に、あやめは窓を飛び越え、跳んだ。全蔵の身体があやめを向くと同時に、広い胸に飛び込んだ。
笑顔で、素早く顔を上げた。
「ほら私にもできたわ!もう子供じゃないんだから」
全蔵は笑ってはくれなかった。怒ってもくれなかった。
ただ驚いたようにあやめを見つめ(あやめには全蔵の眼差しが見えている)胸の中ではしゃぐ細い身体を、ぎゅう、と抱き締めた。あやめの息は止まった。
「バカヤロウ……俺がいなかったら、滑ってたかもしんねーだろ。二度とやるな、……絶対やるな」
頭の上で掠れる声と、抱き締められる熱に言葉を失う。全蔵の吐息が藤色の髪を揺らしている。胸が激しく打っている。
高鳴る鼓動は全蔵のものだと知り、あやめは眉尻を下げた。
だらんとぶら下げていた両腕を、ゆるりと持ち上げる。全蔵の脇腹のシャツを必死に掴んだ。
「……わかったわよ。全蔵がいるときにしか跳ばない」
だからまたこうして抱き締めて。子供の頃みたいに、もっと私に触れて。
熱い胸に顔を押し付けた。バランスの悪い屋根の上で、懸命にしがみついた。髪に触れる大きな手が、そっと離れてゆく。止める術は、10歳のあやめにはまだなかった。
視線を上げると、苦笑して見下ろす全蔵がいた。このじゃじゃ馬め、と額をコツンと小突かれる。
あやめの小さな口が、不本意そうに歪んだ。泣き笑いのような表情になる。
―――早く大人になりたい。
あやめは全身の力を振り絞り、全蔵のシャツから指を離した。
好きな人に抱き締めてもらうことに理由がいらない大人に、早くなりたい。

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