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□ラジカル・クラシカル
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とてとてて、と廊下を駆ける軽い足音がして、銀壱は顔を上げる。鞄と買い物袋を框に置き、踵を踏んでスニーカーを脱いだ。
「おかえりなさい」
駆けてきた銀髪の少女は、満面の笑みで兄を迎える。銀壱はただいまァ、と応えた。
銀壱が框に上がると、彼女の背は胸までしかない。背中まであるさらさらの銀髪を揺らして、凜は買い物袋を両手で持ち上げた。
「重い〜」
「おまえなら持てる、怪力娘」
「怪力じゃないもん」
重い重いと言いながら、それでも凜は確かな足取りで先を行く。銀壱は苦笑してついていった。
肉や野菜を冷蔵庫にしまいながら、ふたりで明日の段取りを確認した。

母の日にカレーを作りたいと凜が言い出したのは、先週のことだ。兄妹三人で、居間にいたときだった。
長兄の銀壱は料理本を眺めて、新たなレパートリーを模索していた。次兄の銀司郎は、座椅子にもたれてテレビを見ていた。
末妹の凜が寺小屋の宿題を終え、ノートをぱたりと閉じて言った。
「母の日、何か考えてる?」
「あー…」
銀壱は居間の壁にかかるカレンダーを見上げた。そういえば、今度の日曜は母の日だ。
毎年、兄妹三人でプレゼントをあげている。銀壱が十六を過ぎてからはバイトもするようになったので、プレゼントはわりと高価なものになっている。
今年もプレゼント用の金額は確保しているが、具体的な案は考えていなかった。


坂田家は両親が共働きのために、家事は長男である銀壱の役目だ。掃除や洗濯などは父母や弟妹にも分担するが、料理は完全に銀壱の仕事になっている。
手習塾へ通いながらバイトをしているので、叔父に習っていた剣術は十六のときに辞めてしまった。今では運動不足解消のため、休日に木刀を振る程度だ。
弟の銀司郎は、今でも恒道館の門下生でいる。朝練のあとに手習塾へ行き、真っ直ぐに帰ってきてまた道場にこもる。叔父である新八の一番弟子であると言っていい。
剣術を始めたのはふたり同時だった。それまでも遊びで木刀を振ることはあったが、本格的に始めたのは銀壱が五才、銀司郎が四才のときだった。
弟は何でも兄の真似をしたがった。剣術をやりたいと言い出したのは銀壱だったが、剣の才能はどうやら弟の方が上らしいと気づいたのは、銀壱が十一のとき。
その頃はすでに身長も同じくらいで、追い越されることは目に見えていた。銀司郎は体格にも恵まれていた。
銀壱の髪は明らかに父似だが、顔や体格は志村の血が色濃く出ている。銀壱の身体は、若い頃の叔父に似ているという。
しかし性格は明らかに父寄りで、そう言われるたびに銀壱は複雑な心境になる。
父は子供の目から見ても(贔屓目に見ても)マダオだ。マダオに似ていると言われて喜ぶ男はいないだろう。
だが息子は、父の凄味も知っている。
一度だけ、侍である父の姿を見たことがある。
幼い頃、木刀を振らせてくれたのは父だった。しかし本格的に剣術を習い始めると、ぴたりと相手をしてくれなくなった。
父との剣は遊びの一環だったのだと知る。いつも庭で、キャッチボールをする代わりに剣を交えていたのだと気づく。
稽古をつけてはくれなかった。その父が、一度だけ本気で相手をしてくれたことがある。
十一のときだった。何がきっかけだったのかは覚えていない。
道場ではなく、庭先だった。縁側では、母の胸で眠る赤子の姿があった。妹は一才にもなっていなかった。
銀司郎と、ふたり同時にかかってこいと言われた。気だるげに、愛刀をぶらりと脇に下げている。
弟と目線を交えて息を合わせた。叔父の弟子になって六年、同年代の子供には負けたことがない。
父に成長した姿を見せたかった。
同時に踏み込んだが、受け止められた。息も吐かず攻めたが、流された。かわされ、制され続ける。父が打ち込んでくる気配はない。
十打、二十打、三十打と打つ内に息も上がり、頭では考えなくなった。無心に打った。弟もそうだった。
やがて、父の気配が変わる瞬間が来た。
はっとして眼を見ると、その色に寒気がした。ざらりとしたものが身体中を這い、銀壱は震えた。
もうできない、と思った矢先、隣で獣の臭いがした。
驚いて見ると、銀司郎が鬼の形相で父に飛び込んで行くところだった。
恐ろしくなった。
銀壱は腕を下ろした。
父の奥に眠る鋭い魂に脅え、その鋭さに怯まない弟が恐ろしくなった。自分は諦めたが、同じものを見ても弟は諦めない。そこに父と同じ魂を見た。
勝てないことは銀司郎にもわかっている。だがその眼は銀時と同じ色をしていた。

銀司郎の容姿は、人に柔らかな印象を与える。
母似の真っ直ぐな黒髪と、父似の緩い顔立ち。十七になった今では、身長も父と変わらない。170センチの銀壱は、いつも見下ろされていた。
性格は坂田家一、おおらかで優しい。銀壱は弟が本気で怒った姿を見たことがなかった。

その弟が、鬼の形相をしている。獣のように息をしている。
いつも自分の真似をしていた弟に、身長よりも先に追い越されたのは剣への情熱だった。
剣術はいつか辞めよう、と銀壱はこのとき思った。そこに負の感情はなく、やけにすっきりとしていたことを覚えている。
父に尊敬の念を抱き、弟の才能に気づいたのは同じ日だった。
銀壱が木刀を下ろし父と弟を見つめている間も、母はずっと微笑んで見ている。銀壱は肩の力を抜いた。
縁側に近づき、妹の顔を覗き込む。すやすやと眠っている。
林檎色の頬が艶々と輝いていた。
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