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□琥珀の揺りかご
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数ヶ月ぶりに入るあやめの部屋は、そんなに変わってはいなかった。小さな鏡台に並ぶ色とりどりの小瓶と、夏用のベッドカバーだけが変化していた。全蔵は安心した。
あやめは薄いベッドカバーに腰かけ、足元にあったクッションで膝を隠した。全蔵は床に腰を下ろした。小さなテーブルを挟み、向かい合う。
「おばさんたちが何も言わないからって、認めてると思うなよ」
説教じみた言い方に、あやめはムッとした。
「さっきからうるさい。保護者みたいなこと言わないで」
ずっと保護者だったじゃないか。
全蔵は言葉を飲み込んだ。保護者であろうと努力してきたが、きっとそうじゃないときもあった。それを幼いあやめに悟られ、だからあやめは時々全蔵を求めた。誤ったのは自分だ。
今は軌道修正ができている。あやめに好きな男ができたことがそれを証明している。だが誰でもいいわけじゃない。あやめはまだ子供だ。無垢で一途な分、保護者として正してやらねばならない。
「おばさんに家庭教師頼まれた」
「えっ」
「あんまり心配かけるな」
あやめの大きな瞳がぱちぱちと瞬いた。重そうなマスカラが揺れる。全蔵は立ち上がり、鏡台からメイク落としを持ってきた。拭き取りタイプのもので、CMで見たことがある。
「全蔵、」
「男は選べ」
あやめの前に跪く。はっと息をのむ気配がした。全蔵は構わず、あやめの耳元に手を伸ばした。
耳にかかる後れ毛をすくい上げ、その下のフレームを掴む。ゆっくりと持ち上げ、手前に引いた。赤い眼鏡は外れた。テーブルの端に置く。
気づけば、あやめは瞳をきつく閉じている。そのくせ唇は薄く開いている。全蔵は奥歯を噛んだ。
「付き合ってんの?」
あやめの瞳がぱっと見開いた。
「何が?」
「先輩と」

好きなんだもの。
あの必死な声が頭から離れない。あやめに想われる男は幸せ者だ。全蔵はあやめを見つめた。
全身全霊、魂と情熱のすべてをかけて、あやめは人を好きになる。それは幼い恋心に違いないが、清く尊いものだ。大切に守ってやりたい恋心だ。
それが自分に向けられるものでなくとも。

三年前から片想いをしていることは知っている。中学の先輩だという男は、どこの高校に行っていると言っていたか。
「先輩がいるから、うちの高校に来たいのか?」
あやめの眼の焦点が合っていない。ほどんど見えていないはずだ。
あやめは眼を凝らした。
全蔵がぼんやりと見える。眼鏡を取られて、メイク落としを手にしているはずの全蔵は一向に動かない。自分を見ているのかもわからない。それでも、全蔵の匂いがする。
幼いころ、全蔵に預けられていたころ、よくこの腕に抱かれて眠った。シャンプーなのか整髪料なのか、かすかな髪の香りと全蔵自身の匂いが混じっている。視力が弱い分、嗅覚が鋭いのかもしれない。
この香りに包まれると、安心して眠れた。
その香りを前に、あやめは落ちつていた。見えなくても目の前にいるのは全蔵だ。疑いようがない。全蔵が、私のためにならないことを言うはずがない。
あやめは素直に応えた。
「付き合ってないし、先輩がいるからじゃない。先輩は男子校なの」
「……そうか」
嗅覚だけじゃなく、私は耳だっていい。全蔵は今、とても安堵した声を発した。
「家庭教師、してくれるの?」
「……ああ」
「お母さん心配してた?」
「すっげェしてた。ちゃんと謝れ。あと派手な格好もやめろ。知らないやつは誤解するからな」
「………」
「明日から追い込むぞ、いくらうちがマンモス校でも落ちるやつは落ちんだぞ。つーかアレだ、おまえ宿題どうなってんだ。あと一学期の内申。あとで見せろ」
「わかったから、眼鏡返してよ」
ぴくり、と全蔵のシルエットが揺れた。
「返して」
「その前に化粧落とす」
言うなり、長い指先が顎を持ち上げた。変わらず冷たい。あやめは緊張した。ひんやりとしたシートが頬を撫でた。頬紅が消え、鼻先と額を往復する。
見えないながらもじっと見ていると、ふっと笑う気配がした。
「目ェ閉じなきゃ、瞼できない」
「あっごめん」
慌てて眼を閉じてから、ふいに疑問に思った。
どうしてこんなことになったんだろう。化粧なんて、シャワーのついでに落とせばいいのに。
どうして私は拒まなかったんだろう。
急に、ぞくりとする。瞼の上を何かが這う感触に、はっとした。メイク落としのシートではない。それは終わった。そのあとに優しい何かがやわらかく撫でている。
指だ。気がついて、あやめの躰は震えた。こんなこと、されたことがない。頭を撫でたり肩を抱かれたりしたあの大きな手が、長い指が瞼に触れている。初めての愛撫に震えた。
落ち着こうと息を吸うと、全蔵の匂いに包まれる。余計に熱が増した。
しばらくそうしていたが、次第に瞼が軽くなる。
意を決して瞳を開けようとすると、
「まだ、」
と制される。反射で瞼を閉じた。
「もう終わったでしょ?」
「まだだ。唇が残ってる」
「それは、」
さっき手の甲で拭いた。ほとんどついていないと思ったのに、と眉を寄せる。
それにしても、唇なら眼を開けていてもいいはずだ。
「開けちゃだめ?」
「だめ。キスするときは、眼を閉じるのが礼儀だろ」
それと一緒、と囁く全蔵の声は、聴いたこともないほど艶やかだった。
目眩がする。
あやめはきつく瞼を閉じた。体温が上昇している。全蔵の匂いがしている。唇が冷たい。
堪えきれず、あやめは腕を伸ばした。目の前のものを必死で掴むと、それは全蔵の髪だった。香りが増して、逆効果だった。
欲望があやめを支配する。だがそれ以上は懸命に堪えた。でなければ全蔵を失ってしまう。
保護者であろうとする全蔵だから、変わらず傍にいてくれる。それに気づき、あやめはいつしか全蔵を追うことをやめた。手に入らなくても、失うよりはずっといい。
そっと息を吐き、あやめは手を離した。
「ごめん、ちょっと血迷った」
眼を閉じたまま、薄く笑う。瞼が震えた。
全蔵の気配は微動だにしなかった。ただ静かに受け入れている。一時の過ちを見逃してくれる。そんな全蔵だから、あやめは他の誰かを全力で好きになれる。
子供のころのように、無邪気に眠ってしまえたらよかった。




20130822 miyako
高校教師と中三の恋は、まだ始まらない。
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