僕達はあの夏の中

□僕達はあの夏の中・1
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 夏休みに入って三日目の午後。普段から口やかましい母さんの声は、ますますうるさくなって俺の耳を直撃していた。
「いい? 一夏。先生がみえたら、きちんと自己紹介してよ」
 いい加減聞き飽きた同じ言葉を受け流す。
「判ったよ、何度目だよ、もう……」
 返事を聞いているのかいないのか、母さんはキッチンカウンターの向こう側で製氷器に落とされた氷をガラガラと掻き回した。
「氷、足りるかしら? アイスコーヒーでいいよね……。やっぱり紅茶の用意も」
「……家庭教師の先生って十人くらい来んの……?」
 落ち着きのない母さんの様子に思わず呟いた俺は、自分の言葉に気を塞ぐ羽目になった。
 家庭教師。
 あーあ。やっぱもうちょっとマジメにベンキョーしとくんだった……。
 高校二年の一学期末。返ってきた俺の期末テストの結果は悲惨だった。その余りのひどさに、母さんは「来年受験なのにコレどうすんの、ええ、どうすんのよー!」とヒステリーを起こしたほどだ。高校受験で脳ミソ使い果たした、とうそぶく俺に突きつけられたのは、有名予備校による夏期講習のパンフレットと大手家庭教師派遣業者のチラシ。
 本音を言えばどちらも辞退したかった。しかし選択肢は二つしかなく、前者はどう考えても拳を振り上げ、頭に鉢巻き「絶対合格!」のイメージしか浮かばず、それよりは、と後者を選んだ。
 ……それに美人先生かもしんないし。
 年上で色っぽい女のセンセーと二人きり、という俺のそんな甘っちょろい考えは機嫌の良い母さんの声によってあえなく潰えた。「先生の名前は佐久間 理央。男の先生ですって」……。
 ああ、夢も希望もない……。
 その瞬間から、家庭教師という言葉は俺にとって高校二年の貴重な夏休みを、勉強漬けへと変える気の重いものとなった。
 そして今日、いよいよ家庭教師がやってくるという。
 お茶の用意の為に母さんがうろうろと動き回るのを、ダイニングテーブルに頬杖をついて横目で見ていた俺は、チャイムの音に顔を上げた。
 一足先に玄関に急ぐ母さんの後を追いかける。もう話し声が聞こえた。
「……初めまして、お電話でお話させて頂いた佐久間です」
「はい、どうぞお上がりになって」
 母さんのよそ行き口調がおかしくて、笑いそうになるのを堪える。上がり框でスリッパを履いていたその人が顔を上げて、目が合った。
「─── 一夏くん? 初めまして、家庭教師の……」
「あれ、……あんた」
 驚いて思わず自己紹介を遮ってしまう。そんな俺に、目の前の小柄なその人は目を瞬かせたあと、ちょっとだけ笑ってみせる。
 お知り合いなの、と訊く母さんの声が遠く聞こえた。
    
     
     
 

   
  
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