僕達はあの夏の中
□僕達はあの夏の中・2
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それは一週間ほど前に遡る。
その日、中学時代からの友達と遊んでいて帰りが遅くなった俺は、いつもより遅いバスに乗りこんだ。
長く続けていたバイトはもう辞めていたけれど、習性でつい時間が気になってしまう。
携帯電話を取り出して画面に表示されている時刻に目を落とした。
車内はほぼ満員状態だった。冷房は効いていても、なるべく近くの人間とは接触したくない。気を使いながら制服のズボンのポケットにケータイを滑り込ませようとして、─── 失敗。
「あ、すいません」
慌てて床に落ちたケータイを拾おうとして屈みこむ。
その時、隣のつり革につかまっていた人の腰の辺りから、男の手がスッと引いていくのが見えた。
スリ? いや、……痴漢、だ。
俺にだってそれぐらい判る。でも、どうすることも出来ずにケータイを拾って立ち上がりながらポケットにしまった。真上のつり革を握って隣をちらっと確かめる。
……男、だよな。
隣に立つジーンズにTシャツ姿の人物は、小柄で髪が長めだけど男だった。歳は多分、俺と同じくらい。頬を少し赤らめて、安堵したように息を吐いている。
俺が携帯電話を拾う為に屈んだことで痴漢は手を引っ込めたらしい。助けたつもりはなかったが、少なくとも、いやな目に合っているひとに気付かず、見殺しにするようなまねは避けられた。
良かった、……と思ったのも束の間。
隣の彼が、顔を伏せた。更に首筋まで赤く染めている。
また痴漢に遭っている、と気付くのに時間はかからない。
考えるより先に、彼の腕を掴んで耳元に囁いていた。
「……場所代わって。アンタこっち」
驚いて俺を見上げる彼の華奢な腕を引いて、半ば強引に身体を入れ替える。
びびった痴漢の手が引っ込んでいくのを目の端に捉えた。ざまあみろ。
身長百八十三センチ、七十キロの俺じゃ痴漢する気も起きないだろう。イチカ、なんて可愛らしい名前に相応しくないゴツい身体に感謝だ。
しばらくしてバスが着いた。俺はここで降りなきゃいけない。隣のひとはこの先大丈夫だろうか……とちらっと見ると、彼もここで降りるらしい。俺の後から人込みを掻き分けてきて、一緒に降りた。
よりによって降りたのは俺と彼の二人だけだ。気まずい。痴漢に遭った女の子を助けたってのならまだしも、男だからな……。
いや、あのままバスの中に彼が取り残されたらそれはそれで気にかかるし、降りる場所が一緒でよかった、じゃあさようなら、と心の中でだけ思って歩き始めると呼び止められた。
「あの……」
振り返った俺を、彼は見上げた。目線が合わなかったので仕方なく見下ろす。ほんとに小柄で細っこいな、とつくづく彼を眺めてしまった。
「……助けてくれて、ありがとう」
つくづく眺めたおかげで判ったことがある。小さな声で礼を述べた彼は、女の子みたいな顔をしていた。それもすごく可愛い。
……これは痴漢に遭うかもな。
そう考えた俺は、彼に言ってみた。
「あんた、結構ああいう目に遭うの?」
「う……」
答えづらい質問に彼が怯んだのが手に取るように判った。
さすがに直球は悪かった、と思ってフォローする。
「あ、いや、だから、遭うなら遭うで、なんか対策考えたほうがいいんじゃねーかって」
「い、……いつもあんな目に遭うわけじゃなくて……ただ、時々、……へんなひとが」
「へえ……時々は、いるんだ。満員バス向きじゃないね、あんた」
顔がキレイっていうのもいいことばかりじゃないんだなあ、と俺は妙に感心してしまった。さぞかし女子に騒がれそうな顔してるけど。
男に騒がれても意味ない。ちょっと気の毒に思っていると彼はぼそぼそと話し始めた。
「……ふだんはバス乗らないから……それに、いつも……遭うわけじゃなくて、今日はたまたま……男が、さわ……触られた、なんて大声出せないし……真後ろなら足踏んづけたり、手、払ったり出来るんだけど、今のはどこから……触られてるのか、判んなくて」
「多分、斜め後ろのヤツだよ。手ェ掴んでチカン野郎って叫んでも良かったけど、アンタが嫌だろうと思って」
「……うん。場所、代わってくれてありがとう」
またしおらしく礼を言われて、こそばゆい気持ちになる。照れくさくてぶっきらぼうな言葉が出た。
「……あんたさ、メガネでもかけたら。そんな顔してたら、これから先も何あるか判んないだろ」
「そんな顔……」
彼はショックを受けたようにぼう然と俺を見上げてきた。瞳が潤んでいるように見えるのは気のせいだと思うけど……。
俺は慌てて弁解した。
「だから、可愛い顔ってこと。不細工じゃないよ、……逆。そんなキレイな顔してたら、また変な目に遭うって」
慌て過ぎたせいで、自分がかなり変なことを言っている、と気付いたのは声に出してしまってからだった。案の定、言われた相手は不思議そうに目を瞬かせている。
「……綺麗な顔?」
「あ、違う、そうじゃなくて、……いや、キレイはキレイなんだけど……」
もう自分が何を言ってるのか判らない。混乱した俺は、少しの間のあと、飛躍したことを口走ってしまった。
「……俺、チカンはしないよ?」
「判ってるよ」
焦りまくったあげくの突飛な発言がおかしかったのか、彼は破顔した。
「助けてくれただろ、君は。そんなことしないって判ってるよ」
初めて見た笑顔にちょっとぼんやりとする。
彼はそんな俺をどう思ったのか、首を傾げる。あ、と何かに気付いたように、その手に持っていたものを差し出した。
「これ、君のだろ。さっき拾った」
彼が差し出したのは学生証だった。どうやらケータイを出し入れしていて落としたらしい。格好よく人助けをしたつもりで、返って間抜けだ。
「……ありがとう」
見惚れていたことも含めてどうにも格好がつかない。聞き取れたかどうかも判らないほど小さな声で礼を言いながら、学生証を受け取る。間違いなく自分のものだった。
「こっちこそありがとう。……ほんとに助かった」
「……」
「じゃね」
彼は軽く言って背を向けるとすぐそばにある陸橋の階段を昇っていく。
受け取った学生証を制服のズボンの後ろポケットに突っこんで、歩き始めてから気が付いた。
もしかして、彼はこれを俺に渡すために、降りる場所じゃないのにバスを降りた……?
慌てて振り返ったが、階段を昇る彼の姿はない。陸橋の上も目で追ったけれど、やはり彼はどこにもいなかった。
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