僕達はあの夏の中
□僕達はあの夏の中・3
1ページ/1ページ
……で、それから一週間が経ち、夏休みに入った、今。
彼は二階の俺の部屋にいた。
「えーと……川嶋、一夏くん。ぼくは佐久間 理央です。よろしく」
「佐久間、……リオ」
「先生」
「……佐久間先生」
リビングから椅子を一脚持ってきて、机の前に俺と二人で座った先生はきびきびと言った。
「よし。……じゃ、まず期末の答案見せて。お母さんが言ってたやつ」
教師然としたセリフにちょっとぼんやりとする。バスの中で痴漢から助けた相手が自分のカテキョの先生だった、なんて一体誰が思うだろうか。普通思わない、誰も……。
その上、下手したら中学生にも見える容姿なのに一流国立大の理系トップクラス。フザけてる。
「……ふーん、なるほどね」
かなり悪い物理と数学の答案用紙を事も無げに見ながら先生は、母さんがやっと出せてほっとしていたアイスコーヒーに口を付ける。俺もつられて一緒に飲んだ。
「─── この前、ありがとう。助けてくれて」
突然バスの中での出来事を仄めかされ、むせる。大丈夫、と背中をさすってくれる手が心地よくて焦った。
「……覚えてないのかと思った」
「え、覚えてるよー。助けてもらったもん」
「でもさっき何も言わなかったじゃん」
「そりゃあねー、生徒のお母さんの前で、チカンから助けてくれてありがとう、なんて言えないよ」
それはそうだ。俺は咳払いして痴漢に遭っていた彼改め、先生にぼそぼそと言った。
「……アンタ、じゃなくてセンセイこそ、あんなとこでバス降りて良かったのかよ」
「え、なんで?」
「……学生証、俺に渡すために、降りたんだろ。返ってメーワクかけた」
きまりが悪くて目を逸らす。そんな俺に先生は明るく笑った。
「なんだ、そんなこと。べつに学生証渡すために降りたんじゃないよ。元々降りるとこだった」
「……ほんとに?」
そんな偶然あるだろうか。疑わしく思った俺は、先生を横目で見る。
先生はちょっと困ったような顔をして、それからいいことを思いついた、とでも言うように身を乗り出してきた。
「じゃあさー、助けてくれたお礼、ってことでどう? 一夏くんは困ってた僕を助けてくれた、僕は一夏くんの学生証拾って渡した。貸し借りなし。それならいいでしょ?」
「うーん……」
先生はわざわざバスを降りたことを否定したけど、きっとそうに決まってる。
釈然としない気持ちだったものの、先生の心遣いが判ったので、しぶしぶ頷いた。
「アンタが、……先生がそれでいいならいいよ」
先生の表情がぱっと明るくなる。
「いいよ、全然いい」
一流大学に合格したとは思えないような言葉遣いをして、先生はにこにこと笑う。それから、ふと気付いたように俺の目をのぞき込んだ。
「先生って呼びづらい?」
睫毛の長い、大きな瞳に見つめられて思わず身体を引く。
「……高校生かと思ってたから。最初」
「そんな童顔?」
そんな童顔だからああいう目に遭うんじゃないだろうか。遠慮して言葉にしなかった俺の突っ込みを見抜いたように、先生は口を尖らせてむくれた。
「前に中学生の子、受け持ってたんだけどさ、理央ちゃん先生とか呼ぶんだよー」
「……親しみやすくていいんじゃね?」
「あッバカにしたろ、今絶対バカにしたろ!?」
「まさか、カテキョのセンセー、バカにしたりなんて」
本当にバカにしたつもりはなかった。……理央ちゃんだって。ふきだしそうになるのをこらえたせいで、口の端が緩む。
その俺の口の端を見逃さず、理央ちゃん先生はバッグから問題用紙の束を取り出した。
「キミの学力を調べます。場合によっては高一からやり直さなきゃいけないからね。覚悟して」
「ウソ、マジで? コレ全部……?」
血の気が引いて思わず声が引っくり返る。先生は、ふふんと腕を組んだ。
「これ全部です」
「ひっで、笑ったの、根に持ってんの」
「やっぱり笑ったんじゃんかっ」
可愛い顔を無理やり険しくさせた先生は、一転、目付きを和らげる。
「……でも、根に持ってるんじゃないからね。一夏くんがどこでつまずいてるのか知る為に、必要なテストだよ」
「はーい……」
毅然とした先生の声に反論の余地はなく、俺はしばらく問題用紙と格闘することになった。
僕達はあの夏の中・4 へ