僕達はあの夏の中

□僕達はあの夏の中・5
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 いつもどおり授業が終わって、いつもどおり先生を送っていったある日。
 先生の住んでいるアパートの前に黒いセダンタイプの車が止まっていた。バイクの後ろで、その車に気付いたらしい先生が身を乗り出す。
「……あれ?」
 エンジン音に紛れて先生のびっくりしたような声。バイクをアパートの日陰に止めると、途端に先生は後部座席から降りてヘルメットを取りながら車に近寄っていった。
 コンコン、と先生が運転席のウィンドウを叩く。車のエンジンが切られて、中から男が降りてきた。
「どうしたの、ジンちゃん。こんなとこで」
 スーツ姿のその男を見上げた先生が、気安く話しかけているのが目に入る。ヘルメットを小脇に抱えた俺は、バイクと車の中間地点で足を止めてしまった。
 開け放したままの車のドアからエアコンの冷気が漂ってくる。
 ジンちゃん、と呼ばれた男を、俺は知っていた。
 向こうも俺に気付いたようで目を丸くしている。
「……川嶋?」
 名前を呼ばれて、やはりそうなのだ、と確信した。俺は、なんとなくおじぎのようなものをしながら、こっそりと先生を盗み見る。
 男と俺を交互に見ていた先生は、不意にぱっと表情を明るくした。
「あ、そうか。ジンちゃん、一夏くんの高校の先生だもんね。知ってるか」
「知ってるか、って……なんで川嶋がここにいるんだ?」
「先生、高坂先生と知り合いだったの?」
 ややこしい。先生、先生って、なんだこりゃ。
 理央ちゃん先生がジンちゃんと呼んだ相手は、俺の高校の数学教師、高坂 迅だった。長身で端整な顔立ちの彼は、結構人気のある教師だ。
 ルックスのことだけでなく、生徒間の問題には不用意に立ち入らず、かといって無関心でもない高坂は担任よりも冷静で的確なアドバイスをくれる、と評判だった。一年の時、隣のクラスの副担任だったが、その評判は進級して二年になった今でも続いている。今年は確か一年の担任を受け持っているはずだ。
 ……まあ、苦手な数学担当ということで俺はちょっと距離を置きたい教師ではあったけれども。
 そんな高校教師と家庭教師に挟まれた俺はうんざりしてしまった。
 俺の気持ちとはうらはらに、家庭教師のほうはにこにこと笑う。
「うん。知り合いって言うか、親戚。ジンちゃんは僕の従兄弟なんだ。そんで、ジンちゃん、一夏くんは今、僕の教え子なんだよ」
「……従兄弟?」 
「……教え子?」
 つい不審な目付きで高坂を見てしまう。向こうも同じ気持ちだったらしく、眉を顰めている。
 そんな友好的とは言い難いムードには頓着せず、理央ちゃん先生は和やかに高坂に向かって言った。
「バイト、カテキョって言ったでしょ。一夏くんは生徒さん」
「生徒さんにバイクで送ってもらったのか」
 皮肉っぽい高坂の言い方にカチンとくる。思わず俺はかばうように先生の前に出ていた。
「俺が送るって言いました。べつに理央ちゃ……佐久間先生が送ってくれって頼んだわけじゃない」
 高坂は訝しむように俺を眺める。後ろからTシャツの裾を軽く引かれて振り向いた。
「一夏くん、……送ってくれてありがと」
「明日も送るから。先生」
「あー、と、うん……」
 先生はちらりと高坂に目をやった。腕を組んだ高坂は不思議そうに訊いてくる。
「……授業のあと、毎回、送ってもらってるのか? なんだってそんな」
 さっきからの高坂の言い方と先生の態度で気付いた。─── 高坂はバスの中で起こった事件を、たぶん、知らない。
 それはそうだろう、わざわざ男が痴漢されたなんて言ってまわるはずがないからだ。
「なんだっていいでしょう。高坂先生に関係な……」
「一夏くん」
 俺の言葉を遮った先生は背の高い高坂を見上げた。
「……バスで、その、痴漢にあったんだよ。ほら、ジンちゃんに伯母さんからの伝言伝えに高校行ったとき、……帰り、一夏くんに助けてもらって。たまたま一夏くんのカテキョすることになって、バス使うって言ったら送ってくれるって……」
 言わなくたっていいのに。恥ずかしかったのだろう、先生は赤くなった顔を伏せた。
 つい俺は横を向いて舌打ちした。─── そうしながらも、あのバスに乗り合わせたのは先生が高坂と会っていたからだったのか、と何故か頭の隅に残る。
 高坂の声が先生に向けられた。
「助けてもらったって」
「うん、……」
「……困ったことがあったら相談しろって言ってるだろう」
「たいしたことじゃないから。いつもバス使うわけじゃないし……女の子でもないし」
「川嶋がやけにむきになるからおかしいと思った」
「一夏くんは、僕が、……ジンちゃんに知られたらイヤだろうって」
「判ってる」
 俯いている先生に、高坂はふっと鷹揚な笑みを浮かべた。─── なんだかひどく面白くない。
 顔を背けた俺に高坂は眇めた目を向けた。
「反抗的な態度の理由は判ったから不問に伏すけどな、川嶋。そんなにつんけんすることないだろう」
「……べつに俺はこれが普通です」
「そうか。理央の家庭教師ぶりはどうだ。ちゃんと教えてもらってるか?」
 理央。高坂の自然な呼び捨てに、胸の奥がざわつくような感覚を覚える。その呼び方は余りにも自然で、高坂と先生がかなり親しいことを表していた。……だいたい質問自体が理央ちゃん先生の側に立った質問で、俺は部外者と言わんばかりだ。
 「しっつれーだな、ジンちゃん。これでも今まで教えた子の親御さんには成績上がったって評判いいんだからね」
 一瞬言葉に詰まった俺の代わりに、理央ちゃん先生が答える。俺もぼそぼそと小声で応戦した。
「……佐久間先生の教え方、判りやすいです。ちゃんと教えてもらってます」
「へえ。それは夏休み明けのテストが楽しみだな」
 高坂は挑発するように理央ちゃん先生に笑いかける。むっとしたらしい先生はつっけんどんな口調で話を変えた。
「それより今日はなにしに来たの?」
「ああ。……この前も言ったろう。仕送り受け取れって。ちゃんと話をしに来た」
「まーたその話、……伯母さんと伯父さんにはもう話がついてるよ。大学入った時に話し合って決めたんだから」
「ウソつけ。お前が勝手に決めたんだって聞いたぞ。だいたいお前が仕送り断ってるって俺が知らされたの、ついこの前で」
「べつに言ってまわることでもないでしょ」
「理央」
 明らかに咎める声だった。高坂は学校では見せたことがないような怖い顔をしていた。
 その顔をふっと無表情に戻し、ちらりと俺に視線を向ける。
 気まずそうな理央ちゃん先生の表情に気付いて、俺は軽く頭を下げた。
「……失礼します」
「一夏くん。……ほんとに、送ってくれてありがとう。これ、明日持ってくから」
 先生は自分の被っていたヘルメットを示して見上げてくる。なんとなく何かを言いたそうな雰囲気だったが、俺は目を逸らした。
「……うん。また明日な。先生」
「気を付けて」
 俺は頷いただけで返事をしなかった。二人に背を向けてゆっくりとバイクに近付く。ヘルメットを被ってエンジンをかけた。
 ……どうしても気になってしまう。自分の好奇心に負けた俺は、何気ない振りをして先生のアパートを振り返った。
 シールド越しに見たのは、アパートの二階へ上がっていく二人の姿だった。理央ちゃん先生の部屋は二階の二〇五号室なのだから、なにもおかしくはない。けれど。
 ─── 高坂を部屋へ上げるんだ。
 なんだか胸の中がもやもやとする。どうしてこんなに落ち着かない気持ちになるのか判らない。
 すぐそばに停めてある高坂の黒い車がやたらと気に障って、知らない内に顔を顰めていた。

 

  

  

  
   
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