僕達はあの夏の中
□僕達はあの夏の中・9
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夕飯のあと、ベッドに寝転がっていた。風呂に入れ、と母さんが何度か言っていたような気がするが、無視するつもりもなく無視する。
『……男にチカンされんのだってほんとは喜んでたんじゃねーの?』
ひどいことを言ってしまった。
先生と高坂が恋人同士だ、ということと痴漢は全くの別問題だ。先生は痴漢から逃れられてほっとしてた。いやだったからだ。痴漢に遭って嬉しい、なんて人間はいない。
判っているのに、先生と高坂がキスをしていた、きっと先生のアパートに泊まって、ついさっきまで一緒にいた ─── という思いが胸の中で黒くわだかまって、男を恋人にする性的志向なら痴漢に遭ってもまんざらじゃないんじゃないか、と ─── そんなことは冷静に考えればありえないのに ─── そんな、くだらないことを考えた。
そんな考えに一瞬で支配されるくらい、かっとなった。
先生の口から言い訳も聞きたくなかったし、高坂のノロケ話を聞かされるのはもっといやだった。だいたい俺に言い訳する理由もない。どう考えたって先生は、「ジンちゃんのことが好きなんだ」とノロケようとしていた。
……それを、そんな先生を想像するだけで息が詰まる。イライラしてくる。
どうして俺がそんなこと聞かされなきゃならない?
薄暗い車内で見た光景が、何度もフラッシュバックする。
今頃、先生は高坂と一緒にいるんだろうか。ただの一生徒に言われたくだらない中傷も、高坂に慰められてすっかり忘れて。
『年上、やなの?……僕は年上でもいいと思うけどなー』
いつかの先生の言葉が耳に蘇る。今思えば、その「年上」は高坂のことだったのだろう。頼りになる年上の恋人がいる、と先生は暗に示していたのだ。
頼りない、年下の高校生のガキは眼中にない。
衝動にかられて拳を握りしめる。先生に関心を持たれていない、という思いが胸の中に暗く澱んでいく。こんなにも一人の人間のことで頭がいっぱいになるなんて考えたこともなかった。
美奈も俺のことで頭がいっぱいになったのだろうか。俺の気持ちが自分にない、と ─── 自分に興味を持っていない、と美奈は言った。
自分の気持ちの重さと俺の気持ちの重さが違うと気付いてしまった彼女。
……それを認めるのがどんなに辛かったか、今ならたぶん、判る。
『一夏くん』
先生の明るい声が聞こえる。
明日も授業がある。先生が来たら、謝って、痴漢されたことそんなふうに思ってない、って……それで、もし高坂が迎えに来なかったらアパートまで送っていこう。
そうすればきっとおとといまで戻れる。また先生の笑った顔が見れる。
高坂が迎えに来てしまったら、なるべく見ないようにしよう。
二人が一緒にいるところを想像するだけで胸が悪くなる。……今頃、二人は会っている。
行き場のない苛立ちを抱えたまま、早く明日になれ、と祈っていた。
「え……?」
その明日になって、先生が来ないと知らされたのは授業が始まる一時間前だった。
「辞めたんですって、佐久間先生。さっき、派遣事務所から電話があってね。代わりの先生を探したんだけど、急なことで、今日は都合がつかなかったって」
どうしたのかしらね、先生、と母さんは廊下にある家の固定電話の前で首をひねっている。
「しっかりした先生だから安心してたのに。……でも、そういえば昨日は何も言わずに早くに帰ってしまって、変だとは思ったけど」
「……具合が悪くなったんだよ。それで、早く」
「あらそうなの。なんだか心配ねえ」
そう言いながら、母さんはスリッパをパタパタ言わせてキッチンに消えていく。
二階に上がって自分の部屋に戻った俺は、机の前の椅子に座って数学の教科書の表紙を眺めた。
先生が来ないなんて何かの間違いだ。派遣事務所の手違いに決まっている。
仕送りをもらっていないから、先生は家庭教師のバイトをしている。俺みたいな、たかが一生徒に、つまらないことを言われたくらいで、辞めたりするわけない。
そのまま、先生を待つ。
授業が始まる時間を十分過ぎたところで、俺はゆっくりと立ち上がって、隣にあった先生の為の椅子を見下ろした。
机の上の勉強道具をすべてデイバッグに入れる。それを肩に掛けて、バイクのヘルメットを手に階下に降りた。
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