僕達はあの夏の中
□僕達はあの夏の中・10
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バイクをアパートの所定の位置に停めて、黒い車がないか辺りを見回す。その車がないことを確認してから二階の彼の部屋を見上げた。脱いだヘルメットを手にぶら下げて階段を上がる。彼の部屋のチャイムを押した。
ガチャガチャ、と鍵を外す音の後、ドアが開く。
現れた先生の顔が驚きに強張る。昨日会ったばかりなのに、ずっと会っていなかったような気がして、その表情を見つめた。
「いち……」
絶対「一夏くん」と言いかけた。けど、先生は俺の名前を飲み込む。
半ば強引に玄関に入った。
先生は勢いに押されたようにわずかに段差のある上がり口に後ずさる。
「あの、……どうしたの……?」
「……アンタが来ないから」
「え……?」
「先生が来ないから、俺が来た。ベンキョ、教えてよ、先生」
勉強道具一式を入れたデイバッグを玄関マットの上に置く。先生は困り顔を見せて、俯いた。
「あ、……次の人、間に合わなかった? やっぱ、ちょっと急だったね、……でも、次の授業……明後日だから、それまでには誰か見つかると思うよ、……」
先生の小さな声が言う。
「も、ぼく、……先生じゃないから」
「─── なんで先生じゃないの」
「……あ、れ、……おかしいな。連絡行かなかった? ……カテキョ辞めたんだよ、ぼく、……生徒さんに不快な思いさせたら、いけないから」
生徒さん、て、俺のこと?
以前、このアパートまで送ってきた時、高坂に向かって口にしていたのと同じ言葉。
そのはずなのに、あの時とは全然違うように聞こえる。
……高坂に言われるのはいい。先生以外の誰に言われても、構わない。
先生にだけは、生徒さん、と呼ばれたくない。
他人行儀なその言葉を聞いて黙りこくった俺に、意を決したように先生は口を開いた。
「……あの……もう、帰ったほうがいいよ……僕と話しても、い……イヤな気持ちになるだけ……」
「……」
閉め出そうとしてる、と気付いてぎゅっと拳を握る。なんとか先生と話したくてその場に踏みとどまった。
「イヤな気持ちになんて、ならないよ」
俯いて目を逸らしたまま、先生は頭を横に振った。
「なるよ。……僕は、昨日、君が言ったとおりの人間だから。あ、でも、ジンちゃんは違うよ。ジンちゃんは、女の子が好きなんだ。僕とはなんでもない……」
「なんでもないって……」
思いがけない否定に困惑して戸惑う。つい、ふてくされたような声が出た。
「……恋人なんだろ、あいつ」
「違うよ。ジンちゃんは、ただの従兄弟で、優しくて、……きみと、彼女がデートしてると思って、僕、頭ん中真っ白になっちゃって、……泣いて……。ジンちゃんは僕を慰めようとして、それで……」
わけが判らない。どうして俺がデートしてたってだけで、頭の中が真っ白になるんだ。泣いた? どうして、……慰めるってなんだ。
高坂は恋人じゃないって?
もう生徒でもないし、昨日の現場を見られているのだから、俺に嘘を吐く必要はない。なのにどうしてそんなことを言うのだろう、と黙って先生を見下ろす。
先生は俯けていた顔を恐る恐る上げて、俺と目が合うと頬に血を昇らせた。その顔を伏せて、おずおずと口を開く。
「あ……あと、……あの……初めて会った時のことなんだけど……」
バスの中で初めて会った時のことだ。すぐに、昨日言ってしまったひどい言葉が思い浮かぶ。
「君が、たす……助けてくれて、……本当に嬉しくて……だから、あの、チカン……とか……喜んだり、してないから……。触られるの、本当に、い、イヤ、で……こ……こんなこと言っても、信じてくれないかもしれないけど、きっと、信じてもらえないと思うんだけど、……ぼく……ほんとにイヤで……だから……」
俯いたままの先生の声が小さくなって消えた。
─── 知っている。先生が、本当に嫌がって、困っていたこと。今みたいに顔を真っ赤にして、俯いていたこと。
腹立ちまぎれに俺が言ってしまったひどい言葉は、想像もしてなかったくらい、先生を傷付けていた。
ぽつ、と足元のデイバッグに染みが出来る。先生は慌てたように片手で瞼を押さえた。
「ご、ごめん……」
なんで先生が謝るんだ。
思わず身を乗り出して、華奢な腕を掴んでいた。
驚いた先生の顔が上がる。大きな瞳は涙に濡れていた。
「謝るの、俺の方だよ。先生」
「───……」
「……チカンに遭って喜んでるなんて思ってない。ごめんなさい」
「あ、……でも……そう、思われても、仕方ないから……」
「仕方なくなんかない。怒っていいよ。……どうして逃げようとするの?」
先生は一生懸命、掴まれた腕を取り戻そうとしていた。掴まれたのと逆の手を使って、必死に俺の手をもぎ離そうとしている。
先生は俺の質問に答えなかった。代わりに、細い声で懇願する。
「……は、……はなして……」
その腕を無理やり引き寄せた。
目をつぶって先生の唇に唇を押し付ける。びっくりしたのか、先生の抵抗が止んだ。そのことに気を強くした俺は柔らかい唇の間に舌を滑り込ませる。
─── 手からすり抜け、玄関マットに落ちたヘルメットが鈍い音を立てた。
それを契機に、正気づいたらしい先生が俺の胸を押してもがく。突き飛ばされたけど、細い腕は掴んだまま放さなかった。
俺を見上げる先生の瞳にじわ、と新しい涙が滲んでいく。
泣かせてしまった、と怯んだ隙に、先生の腕がするりと逃げた。そのまま先生は二、三歩あとずさる。
「なんで……」
不安定に掠れる声が、俯く先生の口から洩れる。いきなり押しかけてきた生徒に、無理やりキスされて、怖かったのかもしれない。
けれど、なんで、と訊きたいのはこっちのほうだった。
なんで高坂のキスには慰められて、俺だと泣くんだよ。
先生はわずかに後ろに下がって、背を向けた。……逃げられる。いや、帰れという意思表示だろう。
瞬時にスニーカーを脱ぎ捨てていた。デイバッグもヘルメットも蹴散らして、部屋の中へ踏み出す。
先生を背中から抱きしめた。
玄関から続きのワンルーム。思った以上に骨の細い、華奢な身体は強張っていて、─── 熱くて。
こんなに、誰かをきつく抱きしめたのは、初めてだった。
腕の中に生々しくひとがいる。
小さくて女の子みたいに可愛い顔をしてるからって痴漢被害に遭いやすくて、けど明るくて、……俺が傷付けて、無理やりキスして泣かせた、先生。
身体を強張らせて俺の腕の中にいる。
その先生を乱暴にこっちに向かせる。身体全体で先生を傍らの壁に押さえつけた。
「─── 高坂とデキてないなら、触らせてよ」
何を言ってるんだ、と頭の隅で思う。高坂とデキてるとかデキてないとかそういう問題じゃない。先生が俺に触られてもいいかどうか、が問題なのに。……ひどいことを言って、こんなことをして、どうせ嫌われてるに決まっている。やけになり、歯止めが利かなくなった。
闇雲にTシャツの上から先生の身体に手を這わせる。じれったくなり、中に手を滑り込ませてじかに滑らかな、汗ばんだ肌に触れた。
先生の髪の毛が鼻先をくすぐる。
「……っ」
先生は身体をびくつかせて息を飲んだ。どうして自分がこんなことをされるのか判っていない、怯えた表情。
真っ赤になっている先生の耳に唇を押し付けて囁く。
「……慰めるってなに?」
身体を硬くした先生はびくっと震えて顔を背ける。
その様子を痛々しいと思いながらも止めることが出来ず、なおも訊いた。
「高坂に慰めてもらったって、どういうこと? 恋人じゃないのに?……どこまで慰めてもらったの?」
「……」
「キスだけ?……じゃ、ねーよな。触らせたの。あいつに。こうやって」
カーゴパンツの前を手の平で包み込んだ。先生の、微かな悲鳴が耳を打つ。。
「や……っ」
俺の肩に手をかけて押しのけようとする。その手首を掴んで壁に押しつけた。
抵抗出来なくなった先生を見下ろす。
「……ここに、泊まったの? あいつ。……ここでも、こうやっていちゃいちゃした?」
「してない、そんなこと、泊まってない、……ジンちゃんは、そんなことしない」
「キスしただろ。……あいつに相手してもらって、嬉しかった?」
胸の中で真っ黒な思いがうねる。高坂が先生のそばに現れてからずっと、イライラしていた。
……それが嫉妬だと自覚する。
「……高坂のこと、好きなの。先生」
声を低く押し殺して訊く。否定して欲しくて、たまらなかった。
泣きそうな先生の目を覗き込んだ。
「……ジンちゃんは従兄弟で、面倒見が良くて、僕のこと気にかけてくれて、……それだけ」
「それだけ。……年上でもいい、って、アレ、高坂のことだろ」
先生は何を言われているのか判らなかったらしい。俺をじっと見上げていて、答えない。
苛立って先生の手首を掴む手に力を込める。
「……っいた、い、放し……」
「まえ、言ってただろ。俺が同い年か年下がいい、って言ったら、アンタ、年上でもいいって。……高坂のことなんだろ」
先生はやっと思い当ったのか、目を瞬かせた。
「それは、……君に、年上でもいいって思って欲しくて……ジンちゃんのことじゃ、ない……」
俺、に、年上でもいいって思って欲しいって……?
一瞬訝しく思い、それから徐々に自分の中で答えが導き出されていく。先生は、俺がデートしていると思って頭の中が真っ白になったと言った。
泣いた、と言った。
……いや、ただの自惚れかもしれない。その答えが合っているのか、確かめるのが怖い。
答えを訊けなくて黙り込んだ俺に、手首を壁に押さえつけられたままの先生は小さな声で話し出した。
「……僕は男で……全然、君の眼中にないって判ってるから……せめて年齢くらい、許容範囲になれたら、って……年上でもいいって思ってもらえたら、僕も年上だよ、って冗談言って……君が笑ってくれるかも、って……相手にしてもらえるなんて思ってな……」
話す内に先生の顔がみるみる赤くなっていく。隠すことも出来ずに先生は俯いた。
「……お願い、……放して……」
「─── いやだ」
考える前に言葉が勝手に口から飛び出していた。それと同時に、噛み付くように先生に口付ける。
逃げられないようにするために、華奢な手首を片方だけ放してその手で顎をおさえつけた。強引に唇を割って舌を入り込ませる。
「んんー……!」
嫌がる先生の舌を絡め取ってめちゃくちゃに弄んだ。顔を振って逃げようとするのを許さずに、気が済むまで口の中に舌を這わせる。
唇を離すと、先生は力が抜けたように壁に背をもたれさせた。先生の鼻先、いつでも唇を塞げる距離で訊いてみる。
「……なんでこんなことされるか、判る?……」
俯いている先生の唇が赤く濡れている。伏せた目に涙を溜めて、先生は、ひっく、としゃくり上げた。
その様子が可愛くてたまらない。
「……僕のこと……きら……嫌いだから、……い、……嫌がらせ、する、つもりで……」
「違うよ。あんたが高坂にキスさせたからだ」
胸の中がひりつくような痛みでいっぱいになる。
「……恋人じゃないんだろ。なんでもないんだろ?……なんでそんな簡単にキスさせんの。どうして高坂は良くて俺だとイヤがんの?」
「……きみは……僕のこと嫌いで……僕じゃダメで……だから……」
「あんたがダメなんていっかいも言ってない」
片方だけ掴んでいた細い手首を、ぐい、と引く。ジーンズの下から痛いほど主張しているその部分を触らせた。
触れたとたん、びくっと華奢な手が強張る。離れていこうとする手を許さずに、押し付けた。
先生の手が触れていると思うだけで暴発しそうになる。
「……ダメじゃない。……なんか、チカンみたいだな、俺。バスの時みたく、あんたを守ってくれるヤツいなくて残念、……このままじゃあんた、俺にヒドイことされるよ。……ジンちゃん、とか呼んでみる? きっとすっとんで来て、あんたを守ってくれる……」
触らせられたまま、先生は頭を横に振った。
「いち、……きみはチカンじゃない、……僕を助けてくれた。バス乗らなくて済むようにって送ってくれて、授業のある日、毎日、……優しくて……だから、君は、チカンじゃ……」
「チカンだよ。押しかけてきて、イヤがってんのに無理やりキスして、カラダ触って、……こうやって触らせて……泣かせて……」
先生の手をゆるゆると解放する。すぐに払いのけるか、と思ったけど、その手はゆっくりと離れただけだった。
「……あんたと高坂のこと考えると、すげーイライラする。何も手につかない。眠れない。どうしたらいいか判んなくて、あんたにヒドイこと言って、でもあんたに会えないと、もっとイライラして、……」
点けっぱなしのテレビの光がやけに明るい。外は夕闇が迫っているのに、部屋の灯りは点いていないせいだ。
扇風機のモーターの音が聞こえる。窓は開いていた。
「─── あんたが好きなんだ」
こんな小さな声、窓が開いていたって先生以外には聞こえない。それでも、外の誰かに聞こえても構わない、と思った。
壁を背にした先生を閉じ込めるように覆い被さる。先生は抗わなかった。
「先生、……理央ちゃん、俺のこと、好き?」
緊張して声が掠れる。さっき訊けなかった答えを、知りたい。
「……教えてよ。センセイ」
涙に濡れた先生の目がぼんやりと見上げてくる。びっくりして何も考えられないのかもしれない。
「……」
「教えてくれないなら勝手に触るよ。あとでやっぱり好きじゃないとか言っても遅いから」
「いち、……いちか、くん」
「なに」
「……なまえ、呼んでも、怒らない……?」
「怒んないよ。……よびすて、して? 俺も理央って呼んでいい?」
こく、と頷く理央を抱きしめる。
腕の中から、夢みたいだ、と小さな声が聞こえた。
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