恋人じゃない

□2
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  2.
 
 
「……はよーございまーす」
「あ、高階君、きのう大丈夫だった?」
 一度、家に戻って着替えてから出社した高階は、スケジュール表の前で同じ企画設計部の木原に声をかけられた。
 
 彼女は高階が企画設計部に配属されてから二ヶ月の間、教育係として仕事を教えてくれた先輩社員だった。仕事の出来る有能な女性として評価が高く、今でも高階は何かと木原に助言を求めることがある。
 
 女性としてもかなり魅力的で、その長い黒髪やはっきりとした目鼻立ち、すらりとしたスタイルで男性社員を日々魅了していた。
 
 ……自分も木原を魅力的だと思うことが出来たら、どんなに楽だったろう。高階はしみじみと思いながら、グロスの塗られた小さな唇が動くのを見ていた。
 
「皆川君、かなり酔っぱらってたもんねー。珍しいくらい」
「……いや、はあ、そうですね、……なんでですかね……」
 
 木原の言葉でいやでも昨日の夜のことを思い出してしまい、口ごもりながら答える。そんな高階を木原は長い睫毛に縁どられた目で見つめ、不自然なほど顔を寄せてきた。
 
「な、なんすか」
「……皆川君から何か聞いてない?」
「何か、って、……」
 
 木原は周りを見回して、高階の両腕をがっしと掴んだ。身体の自由が利かなくなった高階は仕方なしに顎を引く。
 腰が引けた高階に、木原は真剣な表情を向けた。
 
「だーかーらー、カノジョと別れた、とかなんとか」
「……いや、聞いてないすけど……」
「ほんとに? 酔っぱらった勢いでそれらしいこと言ってなかった?」
 
 酔っぱらった勢いで最後までやっちゃいましたけど何も聞いてません、とも言えない。本当のことを言う代わりに高階は恐る恐る訊いた。
 
「……彼女と別れたんすか。あいつ」
「噂よー、あくまでも噂。皆川君と付き合ってた子が、知り合いの知り合いの知り合いでさー」
 
「スゴイ情報網っすね」
「あ、でも噂だってば。高階君なら真相聞いてるかもしれないって期待してたのに」
 当てが外れてがっかりしたらしい木原に、高階は苦笑いを浮かべた。
 
 木原は決してゴシップ好きではない。それなのに皆川の交際にこれほどまでに関心があるのは、彼に少なからず好意を持っているせいだろう。……皆川は、女子社員に人気がある、と高階は知っていた。
 
「ご期待に添えなくてすいません」
 皆川が、彼女と別れた。……かもしれない、と胸の中で呟いてみる。ほんの少し浮かれるような気持ちの後、だから昨日飲み過ぎて様子がおかしかったのか、と複雑な気持ちになる。
 
 彼女と別れた皆川はそれが辛くて飲み過ぎて、自分に付けこまれた。それが正解のような気がして、なんとなく朝から……昨日の夜から続いていたふわふわとした幸福感が萎んでいく。そうか、彼女のせいか、と目を伏せた。
 
「あ、木原さんが高階襲ってるー」
 脳天気な声に振り向くと、高階と同期で同じ企画設計部の加藤がいた。少し眠そうな顔に冷やかすような笑みを浮かべて部屋に入ってくる。多少お調子者のところはあるが、気さくで明るい加藤は付き合いやすい同僚だった。
 
 加藤はタイムカードを差し込んで、冗談口調で言いながら、高階と木原の前を通り過ぎていく。
「木原さん、カレシいるでしょ。後輩に手ェ出していいんすか?」
「やあねー、誤解よ。それに今はフリーだもん」
 
 さっと高階を離した木原は加藤に足早に近付く。ねえねえ、皆川君ってさ、と話しかけながら遠ざかっていく木原と加藤の後ろ姿にほっと息を吐いた。加藤と皆川も部署は違っても同期だ。何か有力な情報が得られるかもしれない。
 
 ……俺も知りてーな。本当に別れたのかどうか。
 知ったところで何がどうなるわけでもない。それなのにそんな考えを持つことに高階は微かに自分を笑った。



 

 午前中の作業が終わり、昼休憩に高階と加藤は職場近くのそば屋に入った。企画設計部で高階の同期は加藤だけなので必然的に一緒に昼食を摂ることが多い。
 
 値段の割には美味いと評判のそば屋だったが、高階の箸は止まりがちだった。
「……ああ、そういえばさあ、皆川がお前のこと捜してたぞ」
「え?」
 
 朝から頭の隅にわだかまっていた名前が、クライアントや上司への大して重くもない愚痴や文句のあとに出てきて高階はぎくりとする。
 
 加藤は思い出したように話し出した。
「外回り行く前かな、皆川。なんか十時くらい。お前、席外してたろ」
「あ、資料室……昔のデザイン、データ化してないやつ見たくて」
「うん。そん時。休みか、って心配してたぞ。自分のほうが飲み過ぎで介抱されたくせに、ヘンなヤツ」
「……」
 
 高階はどんな顔をしていいか判らず、黙ってそばを啜った。─── 皆川の意図が判らなかった。どうして普段なら来ないはずの設計部まで来たのだろう。
 
 まさか、覚えてたりして……。
 恐ろしいことを考えてしまい、慌てて打ち消す。だいたい、覚えていたらわざわざ近くに来ないだろう。自分なら避けに避けまくる。
 
「……皆川、二日酔いで具合悪そうじゃなかったか?」
「なんだ、お前も皆川のこと心配してんの? ヘンなヤツらだな、……別に大丈夫そうだったよ。肝臓強えーんじゃないの」
 
「……なんか、他に言ってなかったか」
「なに? 皆川が?……えーと、設計部来て、お前がいないって判ったら『休みか』って心配そうな顔して……そんで来てるって教えたら、なんかほっとしてた。具合悪そうじゃなかったか、とかも言ってたなー。ぴんぴんしてる、って言っといたけど」
「そ……そうか」
 
 すいませんそば湯ください、と店員に注文する加藤を高階はぼーっと眺める。……皆川は、なぜ自分を心配したのだろう。
 
 単純に自分の二日酔いを心配したのかもしれない。自分が、皆川の二日酔いを心配したように。
 
 他に皆川が、自分を心配する理由はないはずだ。絶対に皆川は覚えていない。
 
 覚えていたら、自分の心配をするわけがない。様子を見に来るはずもない。
 
 次に会ったら何でもない顔で普段通りに言葉を交わそう。何もなかったことになる。
 そう考えながらも高階は胸のつかえが取れず、もやもやとした気持ちのまま残りのそばを平らげた。 
   
    
 

 3へ続く 
 

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