恋人じゃない

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  3.
 
 
 皆川と初めて会ったのは支店ごとに行われた入社式の日だった。十人ほどの名簿順で席が隣、というよくある偶然。しかし高階の「た」から皆川の「み」まで間がいないことは、ついこの間まで学生だった身には珍しく、しかも隣の皆川で最後だった。

自分より後に来た皆川が椅子の上に置かれた名札を手にして『みながわ、で最後なんだ……』と呟いたひとり言に高階は思わず答えていた。

『……「皆川」で最後って珍しいよな』
『うん。ほんと、俺、最後って初めてだよ』

 これから入社式が始まるという緊張でこちらから話しかけたのに、驚きもしないで普通に言葉を返してくれたのが嬉しかった。隣の席に掛けた皆川に、さらに高階は続ける。

『俺も「高階」で最後から二番目って初めて』
『へえ、タ行の人が隣って珍しいかも。……タ行かサ行の名字が良かったな、俺』

『俺、カ行』
『ア行もいいよね……いっぱいいてさ』
『でもヘタに相川とか相沢だったら一番になるぞ』

『ああ、それって嫌かも……卒業式で答辞とか読まされたりしてね……ねえ、なんで俺たち、入社式の前にこそこそカ行とかタ行とかの話してんの?』
 もっともな皆川の疑問で緊張が解れ、高階は思わず笑ってしまった。

 その後、入社式が始まり、研修で各部署に二名ずつ順番に派遣されるという説明でその組む相手が隣の皆川という男だと知った。

 皆川はどの部署に行っても評判が良かった。愛想が良く、コミュニケーション能力が高い。言葉遣いが悪くお世辞にも話好きとは言えない高階から見ると、よくそんなにマメに話すことが出来るな、と感心するほどだった。

 見た目も平均よりかなり上だった。端整な顔立ちで真面目な表情をしていると近寄りがたい感じがしたが、笑うと途端に目の端が下がって可愛らしくなる。その上、人の話をよく聞けて仕事の飲み込みが早いとなれば評判が良いのも当然だった。

 高階も皆川に対して、各部署の先輩上司と同じように好感を持った。……むしろ、女子社員と同じように、と言った方がいいかもしれない。一ヶ月も組んで研修回ってたんだから仕方ない、と高階は胸のうちで弁解する。……俺じゃなくたって好きになる。

 研修の後、それぞれ希望していた部署に配属になったが、皆川のことを「なんとなくいいな」と思う気持ちは失せなかった。それは恋心と呼ぶにはあまりにも淡く、皆川から彼女が出来たと聞かされても「そうか、よかったな」と素直に喜べる程度の想いだった。

 いや、……最初から無理だ、と判っていたからだったのかもしれない。皆川がこちら側の男でないことは判っている。だから少しくらい好きでもバレないし、彼女が出来れば同期の友人として喜んでやれる。

 いずれ皆川が結婚でもすれば自然に忘れられるだろう。そう考えた高階は生まれて初めてハッテンバというところに足を踏み入れ、何度か通った後、顔見知りになった相手とベッドを共にした。

 相手はまた連絡が欲しいとしきりに言っていたが、それきり連絡せず、河岸を変えた。何度かそれを繰り返し、……朝になればまた、皆川と同じ職場へ行く。運が良ければ、社内で会える。

 そんな日々も悪くない、と思っていた。相手には不自由しない、と判ったし、それは出来れば、……皆川が良かったけれども、それこそ贅沢というものだろう。友人として気軽に会うことが出来る、というだけで充分だ。

 それからさらに月日は経ち、この想いは多分に、自分と違って人当りの良い皆川への憧れが混じったものなのだろう、と結論付けていた。皆川に対してフィジカルな欲望を持つことが後ろめたく、それを埋め合わせるように相手を見つけにいくのも気が咎めて、しばらく大人しくすることにした。

 そんな中、起きたのが昨夜の『事故』だった。
 


 

 企画設計部を出た高階は廊下の角を曲がりかけて、管理営業部の同僚と一緒にこちらへ歩いてくる皆川を見つけた。そのまま何気なくUターンして仕事場に戻る。

「あれ、帰ったんじゃなかったっけ?」
 自分のデスクにいた加藤はパソコンの液晶画面を覗きながら、高階に目をやることもなく夕食代わりらしい菓子パンの包みを開けた。

 時刻は夜の七時を過ぎている。加藤と同じく残業組の高階だったが、作業が一段落し、帰ろうとしたところだった。

「……ちょっと、忘れ物」
 ぎこちなく言って自分のデスクをわざとらしく探る。おおらかな加藤が気にも留めていないのをいいことに、最初から持っていた携帯電話をさも今見つけたように取り出した。

「なんだー、忘れもんかよ。手伝ってくれんのかと思った」
「自分ので手一杯だよ。アシストだけでカンベンしろ」

「おお、今度のプレゼン頼むなー」
「ああ」

 クライアントを前に企画や設計のプレゼンテーションをする場合、最低でも一人はアシスタントが付くことになっている。 

 高階も加藤も去年までは先輩のアシストについていたが、年度が変わってからは逆に先輩にアシストしてもらい、小さい店舗の企画や設計を任されるようになった。

 やっとプレゼンに慣れてきたばかりで、今回、初めて高階が加藤のアシストをすることになり、二人であたふたしているところだった。

「マジで木原さんか安西さんに応援頼んだ方が良くね?」
「そうだなー、ちょっと明日、相談してみるわ」

 高階の担当は加藤の物件のアシストだけではなく、以前に請け負った物件のアフターケアも扱っている。プレゼン担当の加藤も頼りないこの状況で、アシストもやっと出来るかどうか、という有り様では本番当日も心許ない。

 先輩に応援を頼む、という提案を加藤とふたりでぽつぽつと話し合い、頃合いを見て高階は話を切り上げた。

「……じゃあなー、悪ィけどそろそろ帰るわ」
「ああ、じゃあな。おつー」
「お疲れ」

 企画設計部のドアをそっと開ける。管理営業部は企画設計部を通り過ぎて奥にある。廊下に出て、きょろきょろと辺りを見回し、皆川の姿がないことを確認して高階は職場をあとにした。

 帰る道すがら、高階は、自意識過剰、と考えていた。電車を降りてから、途中、夕食の弁当とビールを買いに寄ったコンビニの袋が手の先で揺れる。

 皆川は覚えていないはずだ。わざわざ企画設計部に来て自分の様子を訊いたのがいい証拠で、万が一にも覚えていたら決してそんなことはしないだろう。こそこそと逃げ隠れする必要はない。次に会ったときは普段通りに言葉を交わそう、と考えたはずなのに。

 皆川の姿を見てしまうとダメだった。一瞬身体が竦んで、次にはUターンしてしまう。

 加害者なのだから仕方ない、と思う。昨夜の『事故』の加害者。被害者は皆川で、何も覚えていなくても、加害者の自分は覚えている。

 ……当分、皆川と話すことは出来そうもない。面と向かったら自分がどんな顔をしてしまうか、判らない。

 それに、自分と話しているうちに皆川が『事故』を思い出してしまうかもしれないじゃないか。 

 その考えに高階はぞっとした。もし、思い出されでもしたら、皆川は二度と自分に近寄らなくなるだろう。同期の中でも仲の良い友人という立場を失う。

 ……いや、もう、同期の中でも仲の良い友人という立場は諦めた。遠巻きの単なる友人というだけでいい。……嫌われるのだけは、どうか。

 皆川の見下げ果てたような冷たい表情が思い浮かぶ。皆川がすべてを思い出してしまったら、それは本物の現実となってしまうだろう。

 高階は頭を横に振って、想像の皆川の冷たい顔を追い出す。このまま、皆川から少し距離を置けば大丈夫だ、と自分に言い聞かせた。

 

   
 
 あの日の『事故』が嘘のように一週間が過ぎた。
 被害者の皆川は覚えていなくても、加害者の高階は当然覚えていた。ときどきはその時のことを鮮明に思い出し、ぼんやりとすることもあった。

 ……好きなひととする行為が、あんなにもいいなんて知らなかった。
 何度も何度も皆川を反芻する。相手が自分だと判っていない皆川は、情熱的だった。

 あんなふうにもう一回してくれたら……、と考え、その考えをすぐに頭から追い出した。皆川とはあの夜以来、顔を合わせていない。

 社内でも会わないように、気を付けて避けていた。皆川が思い出してしまえばすべてが終わる。

「でさあ、……聞いてる? 高階」
「聞いてるよ」

 仕事帰り、よく立ち寄る居酒屋。テーブルの向こうで浮かない顔をしている加藤に高階は頷いて見せる。加藤の話はこの前の合コンのことだった。

「カワイイ子ばっかだったけどイマイチ盛り上がんなくてさー」
「狙った子のメアド、訊けなかったんだろ」
「そうそう。ノリでしか訊けないだろー、本命はさー」

 加藤もだいぶ出来上がってきている。そろそろ帰るか、と高階は携帯電話の時計表示に目を落とした。

「……本命っていえば、皆川の本命のカノジョ」
「え?」

 顔を赤くして目付きをとろんとさせている加藤はろれつの怪しい口調で言った。
「別れたらしいなー。お前聞いてる?」
「いや、……ぜんぜん」

 首を横に振りながらも、確か木原もそんなことを言っていた、と頭の隅で思う。高階は動揺を隠そうとわざとそっけなく訊いた。

「別れたのか。あいつ」
「そうだってよ。ホラ、営業の残業ってクライアントとか工場次第じゃん。なんか会う時間なくてフラれたって」

「……それって、いつ。けっこう前」
「フラれたの? 先々週の土曜っつってたから、十日くらい前じゃね」

 十日、と高階は口の中で呟いた。送別会は一週間前だった。─── あの『事故』はやはり、彼女に振られて自棄になった皆川が飲み過ぎたせいで起こったのだ。

「俺も聞いたの、昨日だったけど。お前ならもう知ってるかと思って」
「いや……知らね」

 やっぱり彼女のせいか、と高階は胸の内で呟く。彼女と別れた皆川に付けこむような真似をしてしまった。相手など誰でもよかったのだろう。判ってはいたが、彼女のせい、と考えると何かが詰まったように胸の中が重くなる。

 加藤は焼き鳥の最後の一本を咥えながら、高階に目を向けてきた。
「ふーん……なんで聞いてねえの?」
「へ、……なんでって」

 『事故』に繋がる加藤の質問に高階はごまかすように笑った。あの夜以来、まともに会えなくなったからだよ、と心の中で答える。
 高階の心中を知らず、加藤はさらに続けた。

「皆川、昨日、お前のことメシ誘いに来たんだぞ。そんでお前が帰った後だったから、俺が誘われた」
「そうなのか」

「てっきり、お前には話したと思ったんだけどなー。よく飲みに行ってんだろ、皆川と」
「最近、ちょっと……忙しくて」
 口ごもる高階を加藤は不思議そうに眺めた。

「そんでかー、皆川、お前のことばっか聞きたがんの。お前の仕事がどうとか、様子がどうとか。カノジョいんのか、とかも訊かれた」
「…………」

 それは。─── どういうことなのだろうか。
 自分に避けられてると、皆川は勘付いているのかもしれない。今まで親しくしていたのに急に会わなくなれば当たり前だろう。

「俺と同じく、カノジョいない歴ン年だって言っといたけどー。皆川とケンカでもしたのかー?」
「そういうんじゃねーけど。カノジョいない歴ン年って大きなお世話だよ」

「同期の奴らがギクシャクしてるのって、へんな感じなんだよな。ちょっと気にいらないとこあっても仲良くしねーと」
「……気にいらないなんてねーよ」

 実際、気にいらないところなどなかった。ああいうときの皆川がひどく色っぽい目付きを見せることも知ったし、自分の身体に手を這わせる性急な仕草も、荒い息遣いもぜんぶ、─── そこまで考えて高階は思考を止めた。加藤の言っているのは職場での普段の付き合いだ。

 判っているのに、あの夜のことを結び付けてしまうのは酔っている証拠だろう。後ろめたさから、高階は目の前にいる加藤から目を逸らした。

「あさってさあ、歓迎会あんだろ。また営業部と合同で」
「え? な……なんだっけ」

 意識があの夜に向かっていた高階は、唐突に出てきた「歓迎会」が思い当たらず、焦って顔を上げる。

「そん時にでも、仲直りしろよ。皆川と。また三人で飲みにいこーぜー」
 仲間思いの加藤の言葉を、高階はあいまいに笑って返事をごまかした。

 やっと腰を上げた加藤が軽くふらついているのを横目に見ながら割り勘で支払い、店を出る。仲良くしろよ、と加藤は手を振りながら別れて行った。

 自然とため息を吐きながら帰路に着く。……営業部と合同の歓迎会があるのを忘れていた。明後日には嫌でも皆川と顔を合わせなけばならない。

 加藤のプレゼンのアシストはその次の日だ。それを口実に歓迎会をパス出来ないものだろうか……いや、プレゼン担当の加藤は出るつもりなのにアシストが忙しがってたらおかしいだろう、とその考えをすぐに諦める。

 とにかくなるべく、皆川と目を合わさないことだ。話すにしても加藤越しならなんとかなるだろう。
 
 そんな希望的作戦を心の内に練っておくことだけが、高階に出来る精一杯の戦略だった。
 
   
 

 
 4へ続く
 
 

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