恋人じゃない

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   4.
 

 
 送別会と同じ居酒屋で開かれた歓迎会は盛況だった。
 
 管理営業部と企画設計部合同ということもあり、高階は軽いデジャヴに見舞われる。違うのは、異動になった同僚と新しく来た社員が入れ替わっていることくらいで、どうしようもなくあの夜が思い出された。

 異動してきた社員の自己紹介を兼ねたスピーチのあと、乾杯の合図でつつがなく会が始まる。

 初めのうちこそ管理営業部と企画設計部に分かれていた宴席も、いつしか入り混じり、そこここで部署を超えた話に花が咲く。

 高階は企画設計部の元の席から動かなかった。てこでもここから動くまい、と隣の木原から元カレの愚痴を延々と聞く役回りをありがたく仰せつかった。

「でしょおー、高階くーん」
「ええ、そうですね、木原さん」
 何度同じセリフを言われ、何度同じく返したか判らない。テーブルの中央付近にあるビール瓶に手を伸ばしたとき、離れた営業部の席から視線を感じた。

 酔いに気が緩み、目を向けると皆川だった。その隣で加藤がなにかを話している。
 なんでもないような顔で目線を外し、ビールの栓を開けて木原のグラスに注ぎいれた。

「わあッ」
「ちょっとー、なにしてんの、高階ー」
「すいません、かからなかったスか」

 ビールの泡の表面張力が耐え切れず、グラスからこぼれ落ちる。飛んできた援護のおしぼりで慌ててテーブルを拭いていると、いつの間にか加藤がそばに寄ってきていた。

「高階、ちょっと」
「え」

 呼ばれて振り向くと、加藤の後ろに皆川がいる。久しぶりに間近に見る端整な顔に狼狽えながらも平静を装った。

「あー、皆川くーん」
 高階と同時に皆川の姿を見つけた木原は、おいでおいでと手を振った。従順に皆川は木原のそばに寄っていく。

「木原さん、機嫌いいですね」
「えー、よくないわよー。皆川君が来てくれたからちょっと気分よくなったけどー」

 言いながら皆川に熱い視線を向け、強引に腕を掴んで座らせる。皆川は高階の傍らにあったビール瓶を手にして、如才なく木原のグラスに差し付けた。

「うれしー、皆川君のお酌」
「木原さんに喜んでもらえて俺も嬉しいです」

 にこにこと人好きのする笑みを浮かべた皆川は、高階がこぼして少なくなったビールを注ぎ足す。木原はとろけるような目付きを皆川に向けた。

「ほら、加藤も。……高階も」
 ごく自然に皆川は高階の手にしていたグラスにもビールを注ぐ。高階はもごもごと、ああ、とだけ答えた。

「ね、ね、皆川君のグラスはー? 私もお酌したーい」
 いつになく積極的な木原は、伏せてあったグラスを皆川に押し付け、楚々とした仕草でビールを満たす。

「ありがとうございます」
 皆川の行儀の良い態度に木原はますます上機嫌になったらしく、今まで高階に聞かせていた話を皆川にも話し始めた。

 元カレの愚痴が木原の口から語られる中、加藤は高階の顔を見て首を竦める。……気を遣った加藤が皆川を連れてきたのは判っている。しかし、間が悪かった。

「ほらっ、そこ! 聞いてるの!?」
 木原の鋭い声が飛ぶ。どうやら拝聴するのは皆川だけではなく、自分たちも頭数に入っていたらしい。

「はいっ、聞いてます!」
 皆川と面と向かって話したくない高階には好都合だった。木原の機嫌を取りながら、皆川の様子を窺う。

 皆川は木原の話に穏やかに耳を傾け、相づちを打っていた。時折り加藤と高階に目を向け、当たり障りのない話をしてくる。

 すっかり酔った木原は、高階が知りたいと思っていた質問を皆川にぶつけた。
「ねえ、皆川君、……彼女と別れたってほんと?」

 びく、と高階は身体を強張らせ、過剰に反応してしまう。幸いなことに木原は気付かず、加藤は隣にいた先輩の安西と話をしていた。

 皆川は苦笑いを浮かべて答えた。
「ええ、まあ……フラれました」
「えー、マジで。皆川君でもフラれることあるんだ」

「ありますよ」
「まだ未練とかってあるの?」
「……いや、もうないです。こないだ電話来たけど、断ったし」

「え、ヨリ戻したいって電話? 断っちゃったの?」
「ええ。ちょっと、それどころじゃなくて」
「それどころじゃないって? なにー? 他に好きなひと出来たとか?」

 聞いていないような顔でちびちびとビールを飲んでいた高階は、「他に好きなひと」が気になり、目を上げる。
 皆川は高階に目もくれず、木原を相手に静かに話していた。

「いえ、仕事が忙しくなっちゃって。元々仕事で会えなくてフラれたのに、また付き合っても同じですから」
「ほんとにー? もう他に付き合ってるひといるんじゃないのー?」
「いませんよ」
 柔和な口調できっぱりと否定する。

 高階はなんとなくほっとして、泡の消えつつあるビールの水面を見つめた。
 自分になんの可能性もないことは判っている。

 それでも、皆川が元の彼女と復縁したり、他の誰かと付き合っているという話は聞きたくなかった。

 皆川が特定の人間と付き合っていないことを知り、安堵した高階は手にしていたビールを飲み干す。ふーっと息を吐いた時、皆川の視線に気付いた。

「……高階は」
「え……え?」
「高階は付き合ってる子、いるの」

 皆川の質問に驚いて、高階は身体を硬直させる。それをごまかそうと、ぎこちない笑みを浮かべた。

「いや、いねーけど、……」
「だよな。加藤も、いないみたいだって言ってた」

「俺のことなんかどうだっていいだろ。……お前みたいに彼女いるいないなんて誰も気にしないんだからさ。木原さんに訊けよ、カレシにしたいヤツいないのか、って」
 
「そうよ、私に訊いてくれてもいいじゃなーい」
 木原は拗ねたように唇を尖らせて、皆川にしなだれかかろうとする。にこりと笑った皆川は、爽やかに返した。
 
「いえ、木原さんはカレシと別れたばっかりで、まだ元カレのこと好きなんだってよく判りましたから」
 柔らかな口調で鋭いことを言う皆川に、木原はうッと言葉を詰まらせる。
 目を潤ませた木原は、横で話していた加藤と安西の間に身体を割り込ませた。
 
「うわ!?」
「聞いてよ、安西ー、加藤くーん、アイツったらさあ、……」
「しっかりしろよ、木原……」
 
 木原と同期の安西はため息を吐いて、木原の元カレの愚痴を聞かされる新たな犠牲者になる覚悟を決めたようだった。
 
 一旦はうまく抜け出した加藤が巻き込まれつつあるのを、高階は笑って見ていた。

 



「……じゃーな、お疲れー」
「おう、明日よろしくな」
 
 歓迎会がお開きになった後、店の外で高階は加藤と軽く手を挙げて別れた。加藤の横では、木原が安西の手によってタクシーに乗せられている。
 
 他の面々も、二次会に行こうという者以外はそれぞれ帰り始めていた。明日、加藤のプレゼンテーションのアシストがある高階も、二次会は断って早々に帰宅することにした。
 
 軽く酔いが回って気分がいい。ここから家まで電車で一駅分あったが、酔い覚ましに歩いて帰るつもりで高階はふらふらと歩き出した。
 
 今日は皆川と話せて良かった。あの夜のことは何も覚えていない、ということがはっきりした。
 覚えていれば、平然とした顔で自分のそばに来れるはずがない。
 
 同時に木原のおかげで、あの夜のことが彼女と別れた皆川の自棄になった末の過ち ─── 恐らく憂さ晴らし ─── だった、ということも明確になったがそれでもよかった。
 
 最初から皆川と付き合えるなどと思ってはいない。あの一回は、自分にとって信じられないような幸運だったのだ。
 
 始まる前は気が重かった歓迎会だったが、あの日から続いていた鬱々とした気持ちが少しだけ晴れている。酔いで放埓になった高階は、さっきの皆川の姿と自分に話しかける声を反芻した。
 
 そいうえば店の外に出た時、あいついなかったな、とふと気付く。きっと二次会に行ったのだろう。皆川が行くなら、俺も行きたかったな、と考えながら歩き ───。
 
 いきなり後ろから伸びてきた力強い手に腕を掴まれる。高階は驚いて振り返った。
 そこに皆川がいた。
 
「な……」
「高階、……話、あるんだけど」
 
 腕を掴まれたまま、高階はぽかんと口を開けて、目の前の皆川の端整な顔を見上げた。
「は、なし、って……なんで、お前、ここに」
 
 驚きのあまり、しどろもどろになってしまう。皆川はその問いに答えず、高階の腕を掴んだ手の力を強める。
 その目は、困ったように瞬いていた。
 
「その前に、もう一回訊くけど。誰とも付き合ってないんだよな」
「あ……うん……」
「なら、あの日……朝、なんで黙って帰ったの?」
 
 不意打ちの言葉に頭の中が真っ白になった。─── 耳の奥で鼓動の音がやけにはっきりと聞こえる。その音が大きくなるにつれてだんだんと胸が苦しくなっていく。
 
 皆川が言っているのは、あの『事故』の朝のことだ。高階は慌てて目を逸らした。
 まさか、覚えて……?
 
 いや、覚えているはずがない、とすぐに疑念を打ち消す。さっきも皆川の方から普通に話しかけてくれた。
 
 高階は自分の挙動不審をごまかそうと軽く笑いを浮かべながら、自分の腕を掴んでいた皆川の手を解いた。
 
「ね、……眠ってたからさ、起こしちゃ悪りィと思って。……勝手に上がり込んで悪かったな。俺も酔っぱらってたから、そのまま床で寝て、……」
「ウソだ」
 
 きっぱりと言った皆川はまっすぐ高階を見つめる。皆川の目に気圧されて、高階は一歩後ろへ下がった。
 
 目のふちを赤く染めて見つめてくる皆川からは、強い意志が見て取れる。物言いたげなその目に気付くと、高階の酔いは一気に冷めていった。
 
 驚きに目を瞠って、無意識に言葉を口に載せる。
「おま……覚えて……」
「覚えてるよ」
 
 皆川の言葉に、すうっと自分の顔色が青ざめるのが高階には判った。
 ごく、と息を飲み、俯く。足が緊張でがくがくと震える。

 ─── 皆川が、あの夜のことを覚えている。
 
 その事実に、どうしよう、どうしたらいい、と頭の中で言葉がぐるぐると回り出す。
 とにかく、謝らなければ、と口を開いた。
 
「あの……あれは……」
「あれは?……」
 
 皆川の声が責めているように高階には聞こえた。ぎゅ、と手を握り、拳を作ってなけなしの勇気を振り絞る。
 
「……わ、……悪かった、よ……」
「……悪かった?」
 
「う……うん……悪かった……お前、酔っぱらってたし……きっと覚えてないと思って……こんなチャンス二度とないと思って……」
「チャンス……?」
「あ……う、……」
 
 謝罪になっていない、と途中で気付いた。これは単なる浅ましい告白だ。
 
 声も出せなくなった高階は、身体の横に付けた手の閉じたり開いたりを繰り返す。何をどう弁解したらよいかも判らず、うな垂れた。
 
「ご、……ごめんな……」
 どう言いつくろっても、ほとんど意識を飛ばした人間相手に、間違いを正さず、ことに及んだ事実は覆せない。
 
「……ほんと、悪かったよ……ゴメンな……? ノラ犬に噛まれたと思って……なんか、そう言うだろ?……忘れろって……」
 視線の先にある皆川の革靴がぼやけてくる。高階は自分の緩い涙腺を呪わずにはいられなかった。
 
「明日から……今から、シカトしてくれていいから……ほんとゴメンな……二度と、近寄らねえから……」
「─── なんだよそれ」
 
 皆川の硬い声に、高階の肩が揺れる。詰られるのだ、と察した高階はうな垂れたまま、皆川の言葉を待った。
 
「……なんだよ、それ。忘れろって、……あんたも忘れるの?……」
「……」
 
「答えろよ。忘れたいの?」
「……俺は……忘れないけど……」
 
 思わず本音が漏れた。一度心情を晒してしまうと、次から次に言葉がこぼれてしまう。
 
「だってせっかく、さわ……触らしてもらったのに……俺、すげー嬉しくて……触ってもらえて……忘れたりとか……」
 出来ない、と言いかけて高階は口を噤んだ。顔に血が上っていくのが判る。
 
「ごめん……やだよな、こんなの、……わ、忘れるから、ちゃんと、……絶対、思い出したりとか、しないから」
 このまま、皆川の前で俯いていたら泣いてしまう。高階は皆川に背を向けて闇雲に歩き出した。
 
 その肩が後ろから強く引かれる。余りに強い力に転びそうになり、思わず振り向くと引き寄せられた。
 驚きに背筋が硬直する。抵抗することなど思いつきもしなかった。
 
「み……なが……っ」
 ひっくり返った声が情けない、と頭の隅で考えて、─── そのまま抱きしめられて、かき消される。
 
 力が抜けて皆川のスーツの胸ポケットの辺りを掴んでしまう。皆川の唇が高階の頬を一瞬かすめる。
 
 すがりつくようにスーツを掴んだ手に自分の手を重ねて、皆川は高階の耳元で囁いた。
「……ノラ犬に噛まれたのはあんたのほうだ」
 
「え……」
「俺は忘れてもらうつもりはないけど」
 
 みながわ、と頼りない高階の声が夜の風に流れる。高階の手を取ったまま、皆川は歩き出した。
   
 
 

 
 5へ続く
 

   

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