皆川くんの話

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 自分のデスクで伸びをした皆川は、壁にかかっている時計を見上げた。あと三十分ほどで終業時刻だ。
 席を立って工期の横にあるホワイトボードの前へ行き、自分の予定欄に「打ち合わせ外・直帰」と記した。

 今日はネイルサロンの女性オーナーと会食の予定の日だった。話の持っていきようによっては契約が取れるかもしれない。デスクの上を軽く片付けて、ファイルしておいた数種類の内装見本と契約書類をビジネスバッグに入れる。
「じゃ、お先に失礼します」

「はいお疲れさん」
「お疲れー」
 島のようになっているデスク周辺の同僚たちと挨拶を交わす。営業ノルマはない会社だが、無人のデスクは多い。今いない同僚が帰社するのは、早くて一時間後だろうか。
 
 皆川もこれから残業だったが、それほど苦には思わない。客先を回って話をしたり、建材を発注している工場に進捗状況を聞きに行ったりする職が合っているのだろう。
 ふと、高階はもう帰りだろうか、と考える。
 
 高階の所属する企画設計部はプレゼンの前には残業もあるが、基本は定時終業だ。その代わり専門性が高く、建築士やインテリアプランナーの資格が求められる。高階もインテリアプランナーの資格を取るために努力していた。……たぶん、そんなところも彼に惹かれた要因だったと思う。

 ここしばらく忙しくて、一週間ほど会社以外で顔を合わせていない。せっかくの土日は高階が出張で会うことが出来なかった。
 会食は遅くても九時には終わるはずだ。そのあと会えないかな、……。
 考えながらエレベーターホールに向かっていると、企画設計部の前で声をかけられた。

「皆川さん」
 コミュニティルームで会った総務部のエリちゃんだ。書類を入れる茶封筒を胸に抱えている。皆川におじぎをして、乱れたショートヘアを直す仕草が女の子らしい。
 皆川も軽く頭を下げて近付いた。

「どうしたの?……設計部に用事?」
「はい、書類届けに」
 エリちゃんは高階に気があるのかもしれない、と加藤が言っていたのを忘れる皆川ではない。
 穏やかな心ではいられなかったが、それは顔には出さずに微笑んだ。

「入りにくいの? 俺が持っていこうか」
「いえ、大丈夫ですー」
 胸の前で片方の手の平を振られてあっさり断られた。なるべく高階と彼女を接触させたくない、と思っていた皆川は心の中で舌打ちする。

「今、帰りですか?」
 何を思ったか知らないエリちゃんにくったくなく訊かれて、皆川は首を横に振った。
「いや、クライアントと食事しながら打ち合わせ」

「えー、これからですか? 大変」
「仕事だからね」
「どこでですか?……わあ、そのレストラン、雑誌に載ってましたよー。いいなー」
 
 これから向かうにも関わらず、その場所にピンと来ていなかった皆川だが、エリちゃんはピンと来たらしい。きっと女性好みのオシャレなレストランなのだろう。その内装には興味があったが、目下のところ、場所がどうこうよりも契約が取れるかどうかのほうが重要だ。

 待ち合わせの時間を確認しようと腕時計を見ると、エリちゃんが申し訳なさそうな顔をした。
「やだ、すいません、声かけちゃって。時間大丈夫ですか?」
「あ、大丈夫。……でもないかな。もう行かないと」
 会食場所に指定されたそのレストランが入っているホテルは都心ではなく郊外だった。移動時間を考えるとそろそろ出ないと間に合わない。

「それじゃ、お疲れさま」
「お疲れさまでした。あさって、楽しみにしてますねー」
 エリちゃんの言葉で、明後日に飲み会が迫っていたのか、と思い出す。すっかり忘れていた。

 気が重くなりながらも、習い性になっている笑顔を見せて別れる。エレベーターホールに向かう途中で振り返ると、エリちゃんが企画設計部に入って行くのが見えた。
 
「……」
 エレベーターは、まだ来ない。ちょうど他の社員の姿も見えない。何気なく設計部の窓際まで引き返し、一枚だけ開けられていたブラインドから中を覗いた。
 加藤が先輩で女性社員の木原と立ち話をしている。その木原と同期の安西が、図面を手にしてふたりに近付いていく。

 高階は、と捜すと、先に目に入ったのはエリちゃんのほうだった。席に座っている高階のそばで、何事か話している。
 彼女を見上げている高階のほうが積極的に話しかけているような気がして、皆川は知らず知らずのうちに眉根を寄せた。
 
 なんだか高階の顔色が優れないように見える。いったい何を話しているのか、気にはなったが時間がない。エレベーターの到着音が響いて、開いたドアに走りこむ。
 誰も乗っておらず、腕を組んだ皆川はエレベーターの壁にもたれた。

 エリちゃんはいい子なのだろう。明るく気さくで、ナツミちゃんのために皆川を飲み会に誘うところを見ても友達思いな世話好きの女の子だ。顔立ちもスタイルも悪くない。今のところ、非の打ちどころがない、と言ってもいい。

 けれど、高階は渡さない。
 どんなによく出来た女性であっても、高階が思わずグラつくような男であっても、渡す気はさらさらない。
 
 先ほどの、エリちゃんを見上げて何事か話している高階を思い出す。
 高階は、嬉しそうではなかったか。照れたりしていなかっただろうか。まさか職場で告白なんてことはないだろうが、絶対にない、とは言い切れない。そもそも自分たちの関係のほうが、二、三ヶ月前には絶対になかった。

 苛立ちが募る。誰も高階に近付いて欲しくない。もしも高階が近付いて来た誰かを好きになって、恋人だと認めるようなことがあったら、自分はいったいどうすればいいのか。
 自分を恋人だと認めない高階は、他の相手が見つかれば、いつでもすぐに別れるつもりなのではないだろうか。
 
 ……そんなの、それこそ、認めない。
 いつも柔和な顔つきの皆川の眉間に縦じわが寄る。ちょうど帰社してきた営業部の同僚が、エレベーターから降りてきた険しい表情の皆川とはち合わせて驚きに目を丸くした。
 
 
 
 
 
 つけまつげを何枚も重ねたギャルメイクに盛り髪、淡いピンク色のミニワンピースを身に着けた夫人を、ホテルのフロントで呼んだハイヤーへエスコートする。年配の夫がいるようには見えない若い彼女は、車寄せに入ってきた黒塗りの高級車に臆することなく乗り込み、皆川にとろけるような笑みを向けた。

「それでは、また明日お伺いさせて頂きます。本日は本当にありがとうございました」
 微笑んで車のドアを閉めたあと、しばらく頭を下げて見送る。ハイヤーが車寄せを出るまで、充分な時間を置いてから頭を上げた。
 
 ライトアップされたきらびやかな庭園が目に入る。やれやれ、とネクタイを緩めてYシャツの上のボタンを外した。
 以前、約束を反故にしたことで先方の機嫌を損ねてはいないかと危ぶんでいたが、杞憂だった。「気にしないでいいよー」といつものくだけた口調で皆川を許した彼女は、「ダイエット中」と言いながらワインを飲み、デザートまですべて完食した。

 きっと皆川のように、夫以外に食事に付き合う男はたくさんいるに違いない。彼女は若くて美しく、食事の相手が皆川でなくてもいいからこそ寛容だ。……それでも会食の終わりには、多少のあてこすりは言われたが。

 車寄せからホテルの敷地の外へ向かう歩道を歩きながら、胸ポケットからスマートフォンを取り出して受信メールをチェックする。会食の前、高階に今夜アパートに行っていいか、メールしていた。
 エリちゃんと何を話していたのか、気になって仕方がなかった。─── もしも彼女のことを気に入った、とかだったらどうしよう?
 
 学生の時、女の子と付き合っていた、と高階から聞いたことがある。つまり、エリちゃんも充分高階の恋愛対象内で、彼女になる可能性はゼロではないのだ。
「あれ、……」

 受信メール一覧に高階からの返信はなかった。おかしいな、と思い、未送信メールのフォルダを開ける。送信ミスかもしれない。 
 庭園のイルミネーションがチカチカと瞬く中、立ち止まってスマートフォンを弄っていると、目の端に見覚えのある男物の靴が映る。

 それに気付いた皆川が目を上げると、そこに高階がいた。
 

   

 →  5. へ続く
 
 
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