短編
□温泉旅館で
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「ふぅ・・・」
俺は今、都心にある老舗の温泉旅館のマッサージ機に、どっかりと腰掛けていた。
この年で旅館にあるマッサージ機を使うのは少しばかり気が引けたが、実際に椅子に座っていると、何ともいえない心地良い感覚が体のあちこちにきて、そんな事を考えるのが何だか馬鹿らしくなってきた。
高野さんは、そんな俺を見て
「ハッ、じじくさ」
と明らかに鼻で笑ったが、高野さんの方が年上なのに、そんな事を言われる筋合いは無いのではと思った。
・・・・・・・・・*
「やっぱり、風呂上がりには牛乳だな」
ビンのフタを開けながら、高野さんはそう言った。
「お前も飲む?」
「いえ、結構です」
「あっそ」
高野さんは、まだ乾ききっていない前髪を掻き上げつつ、グイッと牛乳ビンを煽った。
べ、別に格好良いとか思ってないし・・・!
誰に聞かれたわけでもないのに、内心でそう呟いた。
・・・・・・・・・*
俺が、マッサージ機に座りながらうとうととしていると
「おー七光りー」
と、意外な人物からの挨拶が聞こえた。
「い、井坂さん!?あ、その、こんばんは・・・」
慌てて立ち上がって、ぺこりと頭を下げた。
「これはこれは井坂さん。どうしてこんなところに?」
「おー、高野もいたのか。実はここ、俺の御用達の旅館でさ。最近仕事がずっと忙しかったから、ちょっとばかし羽を伸ばしたいと思ってな。朝比奈に無理言って、行かせてもらった」
「そうなんですか。そういえば、朝比奈さんはどちらに?」
「あぁ、あいつは今、親父と電話しててちょっと外してる。まぁ、もうじき来るだろうが」
「そうですか」
「ここの旅館、マジでお薦めだし。お前らも、仕事の事は忘れて寛げよー。じゃ」
そう言って、井坂さんはポケットに手を突っ込みながら、その場をあっさりと去っていった。
・・・・・・・・・*
何だか、喉が乾いたな・・・。
そう思った俺は、近くの台に置いてあったペットボトルに手を伸ばし、口を付けて一気に飲んだ。
だが、
「えっ・・・!?」
スポーツドリンクの味がするはずだったのに、喉を伝ったのは、何故か牛乳の味。
ま、まさか・・・!
恐る恐る、自分の手にとったものを確認すると・・・
「牛乳、ビン・・・」
そう、それは高野さんがさっきまで飲んでいた牛乳ビンだった。
・・・て、アホか俺!
何やってんだ!
そ、そうだ、高野さんは・・・!?
顔を上げると、目の前に高野さんが立っていた。
そして、
「それ」
間接キスだな。
今、俺が一番言ってほしくなかった言葉を、さらりと告げた。
「え、えーっとですね、これは高野さんが置き忘れたんじゃないかなと思って、親切にも、俺が高野さんに渡してあげようと思ってですね・・・」
「・・・・・・」
「・・・嘘ですすいません。飲んでしまいました。ごめんなさい」
苦しい言い訳は、やはり高野さんには通用しなかった。
「ま、別にいーけど」
そう言って、高野さんは俺から牛乳ビンをひったくって、残り僅かだった中身を全部飲みきった。
「は!?ちょ、ちょっと高野さん・・・!?」
「お前が飲んだんだから、文句言うな」
「・・・すいませんでしたね」
せっかく温泉旅館に来たのに、結局、この人といたせいで全然疲れがとれなかった。
どこか遠くで除夜の鐘が鳴り響くのを聞きながら、俺は、長かった一日の終わりを悟ったのだった。