過去拍手文
□No.8『I owe what I am to you.』
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No.8『I owe what I am to you.』
ある日突然、さして仲良くもないクラスメートから休み時間に声を掛けられた。
「なぁ嵯峨、机なんかに突っ伏していないでこの曲、聴いてみろよ」
正直相手にするのも億劫でだんまりを決め込んでいたものの、あまりにもしつこいくらい話し掛けてくるから俺はのろのろと机から顔を上げた。
…あー、こいつの名前、何だっけ。
こっちは名前すらも思い出せないのに、そいつは音楽プレーヤーを笑顔で俺に差し出してきた。
「…何」
「まだ名もない歌手だけどさ、聴いたら絶対人生変わると思う」
…人生?
何それ。
俺は、自分の人生なんかに何の希望も抱いていない。
大体たった一つの曲を聴いただけで人生が変わるというなら、俺はとっくに自分の人生をやり直している。
まぁ、俺にはそんな事すらももうやろうとする気力もないけど。
「興味ない」
「つれないな。いいから聴いてみろよ」
不満げに言って、そいつは俺の耳に無理矢理イヤホンを押し込んだ。
「…おい」
「えーっと…あ、あった」
馬鹿らしい。
聴くだけ無駄だ。
そう思ってイヤホンを外そうとしたら、鼓膜を震わせて曲が頭の中に流れてきた。
今時のJ-POPにしては珍しく、聴いている人に高揚感や興奮を与えない穏やかな曲。
歌詞の節々に曲に対しての思いが感じられ、それらをひとつ、またひとつと拾い上げていくだけで、心の中を凪が吹いていく様だった。
「…これ、誰の曲」
「へ?」
「この曲、誰が歌ってんの」
「あ…あぁ、それは…」
彼が口にした一人の歌手の名前を頭の片隅に残し、俺は音楽プレーヤーを持ったまま家の近くにあるCDショップを訪れた。
J-POPのコーナーで、俺はその歌手の名前を探した。
「お、お…。あった」
彼から聞き出した歌手の名は、小野寺律。
一番最新のものに書かれていた経歴を見ると、俺と大して年の変わらないやつだと分かった。
「…しかも、俺より2つ年下かよ」
自分より年齢が低いやつの歌に心が動かされたなんて正直信じがたかったけど、俺はそいつのCDを1枚ずつ借りていく事にした。
・・・・・・・・・*
家に帰ると、両親がいつものように言い争いをしていた。
「ただいま」
一応リビングのドアを開けて言ってみたものの2人には聞こえていなかったらしく、俺なんかいないみたいに口論が続けられていた。
「…あほらし」
溜め息と共にドアを閉めると、足元に擦り寄ってきたソラ太を抱え上げて俺は2階へと繋がる階段を上った。
彼から預かったままの音楽プレーヤーを鞄にしまい、俺はすっかり埃をかぶったデッキにCDを通した。
下から聞こえてくる騒音を遠ざけるために、プラグにイヤホンを差し込んで耳にはめる。
そいつの曲は俺の腑に落ちないものがほとんどだったのに、どれも聴いているだけで何かしら心に残るものがそこにはあった。
それは、ただ単純に曲の歌詞に共感出来たり、それまでとは声音を変えた優しい歌い方だったり。
夜が明けるのも忘れ、古いものから新しいものまで俺はそいつの曲を一気に聴いた。
いつの間に出て行ったのか、俺が玄関を出た頃には両親は既に家にいなかった。
・・・・・・・・・*
学校の帰り、俺は彼に音楽プレーヤーを返そうとした。
「悪い」と短い謝罪の言葉を口にしながらそれを渡す俺に、彼はしばらく嵯峨が持っていてよと笑って答えた。
「いつもより顔が明るい。何かあったんだろ」
分かっているだろうにそう茶化しながら言う彼に、お前が教えてくれた曲のおかげだとは何だか悔しくて言えなかった。
だから、その代わり
「…別に」
そう素っ気なく返事をすると、「ふーん」と彼は口元に笑みを残したまま空を見上げた。
「そいつのライブ、あるんだって。今週の日曜日」
「それで?」
「俺、急に用事が入って行けなくなったんだ。良かったら、お前が見に行けよ」
「場所は?」
「ここからさほど遠くないところ」
ほら、と彼は鞄の中からチケットを取り出した。
「これ、お前にあげる」
じゃあな。
押し付けるようにチケットを手渡すと、彼は颯爽と廊下に歩いていった。
「待…」
引き留めようとしたら、彼がわざとらしく大きな声で言った。
「あーあ、俺行きたかったんだよなー。けどしょうがないから、今回はお前にそれ譲るわ」
その時初めて彼が自分のためにチケットをくれたんだと分かって、俺は何も言わず、教室を去る彼を見送る事にした。
・・・・・・・・・*
日曜日、俺は歩いてライブ会場へと向かった。
やはり無名だからか、集まっている人はまばらだった。
けど…こいつは、この先きっと音楽界に名を上げていく事になるだろう。
俺はそう確信していた。
舞台袖から登場してきたそいつを、決して大きくはないものの温かい拍手が迎える。
「皆さん。今日は俺のライブに集まっていただき、ありがとうございました」
マイクの前で一礼した後、そいつが観客にそう語り掛けた。
歌っている時とは違う一人の人間としての声は、CDで聴いていた声より少し幼さを感じさせた。
「今日は俺の代表作をいくつか歌って、最後に来年の春に売り出す新しい曲を皆様の前で披露しようと思います。どうか、最後まで楽しんでお聴きください」
折り目正しくお辞儀をしたそいつに再び拍手が送られ、舞台と観客席の照明が落ちてからそいつにピンスポが当てられた。
あっという間に時間がすぎ、気付けば最後の曲となっていた。
「…本日このライブ会場に来てくださった皆様のために、心を込めて歌います。『桜色の風』」
ライブのトリとしてそいつが歌ったのは、甘くも切ない初恋の歌だった。
今までとは違いそいつ自身が作詞、作曲を手掛けたその歌は、本気で恋をした事がない俺の心を何故か強く揺さぶった。
"ずっと見ているだけだった"
"見ているだけで十分だったのに"
"もっと君に近付きたいという抑えきれない気持ちが、俺を駆り立てた"
伝えられない想い。
そんなの、ただの苦しみでしかないのに。
歌詞に登場する主人公はは好きな人への感情を胸に秘めたまま、ついには一言も会話を出来ずにその人と離れ離れになってしまう。
…もし、これが本当の話だというなら。
どれだけあいつは馬鹿なんだろう。
自分の感情を押し殺して、相手の幸せだけを願うなんて…
「そんなの、可哀想だよ…」
俺の斜め前に座っていた女性が、涙を拭いながらぽつりと零した。
自分の両親と比べてみても、到底俺には理解出来なかった。
けど、曲を歌い終わった後、そいつは静かに観客に向かって言った。
「今歌ったのは、俺の学生時代の話です。中1の頃からずっと好きだったんですけど、とうとうその人に想いを告げる事はなかったんです」
簡単な挨拶がされライブが終わっても、俺はその場から一歩も動けずにいた。
「どうされたんですか?」
スタッフが心配そうに声を掛けてきたところで、俺ははっと我に返った。
「あの、あいつに、小野寺律に会わせてください」
「すみませんが、そういったのは…」
「お願いします」
俺が頭を下げると、スタッフは困った様な表情を浮かべた。
…ずっと、不思議に思っていた。
どうして、あいつの歌がこんなにも俺の心に響くのか。
どうして、CDの音が耳に残るくらいあいつの歌声を聴きたくなるのか。
俺は、多分…。
「スタッフさん、チーフの方が呼んでいま…」
その時、今一番会いたいと思っていた人物がひょっこり舞台袖から顔を出した。
「って、お取り込み中ですか?」
「いえ…」
渋った顔をするスタッフをよそに、俺はそいつにどんどん近付いていった。
きょとんとした表情のそいつを見上げ、俺は簡潔に言い放った。
「連絡先、教えて」
「…はい?」
「だから、お前のアドレス教えて。ついでに電話番号も」
「あー、俺のファンでいてくれる事はありがたいんですが…」
困惑した様子でそいつがスタッフを見ると
「そういうのは個人情報なので、あなたには教えられません」
そうはっきりと告げ、もう帰ってくださいと俺をライブ会場の外へと追いやった。
…これぐらいで諦めるかよ。
それ以来、俺は事ある事にそいつのライブを訪れ、ようやく折れたそいつから連絡先を聞き出す事に成功した。
この後、何回か連絡を交わす内に同じ趣味を持っていた事が分かり、俺は出会う前よりずっとそいつの本来の姿に惹かれていく。
そしてそいつの想い人が俺だった事が明らかになり、やがて俺達は付き合い始める。
「な?人生変わっただろ?」
付き合い始めてから一週間、彼が嬉しそうに俺に聞いてきた。
昔の俺なら、そんなの有り得ないと鼻で笑っていただろう。
けど、今の俺なら自信を持ってこう答えられる。
「…そうだな」
I owe what I am to you.
今日の私があるのは、あなたのおかげです。
ありがとう。