Instrumental
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ガタンという物音に身体を強張らせる。
窓を風が揺らした音だと気がついてそっと息をつく。
昔、教室として使っていたのであろう教室は埃もなく、意外に片付いている。
古い樹の匂いと、薬草をすり潰したり混ぜたりするときの独特の匂いは、森の薫りに似ていて、心が安らぐ。
胸に手を当てると、まだ少しドキドキしている。
こんなに誰かと話したのは、入学して以来初めてだ。
こんなに何度も言葉を使ったのも、それなのに追いかけてきてくれる人も、あんなに綺麗な男の子に告白されたのも初めて。
今日は初めてが多すぎる。
追いかけっこみたいなのは昔から慣れていた。
日本の古い家は一戸建てで変に入り組んでいて、迷いやすい。
そういう場所でやるかくれんぼとか鬼ごっこはかなり楽しくて、隠れたまんま眠ってしまったことも何度かある。
鬼ごっこか。
それも久しぶりだ。
窓から入ってくる光は月と星のかそけき優しさ。
静寂がなにより心を満たす。
ただ、虚ろに。
泣きたくなるぐらい綺麗な月の光。
星の瞬き。
「……シリウス……」
今日初めて遭った少年の名前は星の名前。
星が彼の名前。
彼の星はきっと今も輝いている。
私は闇にある、混沌にあるだけの生き物。
前にも進めないし、後ろにも戻れない。
できることは黙っていること。
言葉を話さないこと。
歌も、大好きな歌さえももう、歌えない。
見つかってはいけないから。
これ以上、だれも傷つけたくないから。
戸の動く音がして、私は身を強張らせた。
見つからないように。
息を潜めて、闇に存在を溶けこませて。
――誰も、私を、見つけないで。
気配は近くまで来ている。
誰?
まさか、まだ探してるの。
「クゥ〜ン」
犬の声にホッとして、息をついた。
「どこから迷いこんだの?」
声をかけると、人間みたいに驚いて、闇がその姿を月の下へと押し出す。
黒い毛並みの大きな犬だ。
耳を垂れて少し情けないけど、月光に照らされる毛並は極上のびろうど。
そっと手を伸ばして、触れてみたい衝動に駆られるそのままに身をまかせる。
「綺麗ね」
綺麗ね。
私なんかより、とても綺麗。
綺麗なアナタの為に歌を歌いましょう。
最後のシアワセの歌を。
歓喜の歌を。
夜にとけるように密やかに、ゆりかごに眠る小さきモノの為に。
愛を歌うよ。
月が溶けて、全部が消えて、ただ世界は歌だけになる。
こんな力は望んでなかった。
こんな私は望んでなかった。
こんな夢は持ってなかった。
世界を優しく包んで、すべての心を溶かして、全部滑らかなバターみたいに。
みんながみんな、幸せになれる世界ならいいのにね。
一息に歌い終えると、涙が溢れた。
「最後の歌を、聞いてくれてありがとう」
その滑らかな毛皮に顔を埋めて、少しの間、息をつかせて。
「ありがとう。
もう、お帰りなさい」
この世界に私のいる場所はないけど、まだ生きられる。
アナタのおかげよ。
手を離して、犬を見送って、視線を月に戻す。
月と星は変わらない。
今も昔もこれからも永遠に。
私も変われない。
今も昔もこれからも永遠に。
おんなじね。
おんなじだわ。
「最後ってなんだ」
低い、声。
怒ってる声だ。
どうして怒るの、誰に怒るの。
私を、殴るの。
* * *