庭球のお話

□一本目
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あいつの鼻歌が頭から離れん。

最初にあいつの歌を聞いたのは、ちょうど新学期が始まったばかりの頃だった。部活をサボって中庭の隅っこで寝転んでいたら、かすかに歌声が聞こえてきた。ちょうど眠りに入ろうとしていたところだったから目を開けるのが億劫で、誰が歌っているのか確かめたりしなかったが、かろうじて聞こえる歌声に耳を傾けていたら、いつの間にか寝てしまっていた。鼻歌のせいで眠りの浅い俺がグッスリ爆睡してしまって、激怒する真田に叩き起こされたのを覚えている。

その日から俺は足繁く中庭に通うようになった。中庭にいればまたあの鼻歌を聞けると思ったからだ。他人にそれほど興味の無い俺が鼻歌ごときに興味をそそられるとは自分でも驚いたが、頭の中をぐるぐる流れるあの歌のせいで、中庭に通うのを止めることはなかった。

何日か空振りが続き、もう聞けないかと諦めかけていたある日、ようやくあの歌が聞こえた。ハッとして閉じていた目を開けて歌っているやつを確かめてやろうかと上体を起こした辺りで、動きを止めた。そして、そのまま静かに桜の木に背中を預けて息を殺して耳を澄ました。こんなに静かにしなければ聞こえない鼻歌。俺が出ていったらもう二度と聞けなくなるんじゃないかと怖くなった。自分がいるのを悟られないように気配を殺して耳に全神経を集中させる。リズムや音程は聞き取れるが、やっぱり歌詞までは聞き取れなくて、一体なんの歌なんじゃろう、と心の中で呟いた。

何度も中庭に通う内に、わかったことがある。中庭には園芸部の畑があること。俺がいつもいる桜の木の側がその畑があること。今年の園芸部員は幽霊部員ばかりで実質活動しているのはたった一人であること。ここまでわかると鼻歌の主もわかったも同然なのだが、俺はあえてその部員を探すようなことはしなかった。俺が興味をそそられているのはあくまで鼻歌であってそいつではなかったからだ。…この時は。

珍しくアラームよりも早く目が覚めたある朝。誰もいないと思っていた教室から、あの鼻歌が聞こえてきた。ドアの取っ手に手をかけたまま思わず立ち止まる。いつもよりハッキリと聞こえる歌声。おそらく誰も来ないと思って安心して歌っているのだろう。いつもはかすかに聞こえるだけで、途切れ途切れにしかわからなかった歌詞がハッキリと聞き取れたが、やはりなんの歌なのかはわからなかった。歌い終わるまで待ってからゆっくりとドアを開けたら、歌の主がこっちを向いた。

「あ、おはよう。早いね」
「ん」

たった一言。それだけなのに心臓がバクバクとうるさい。鼻歌でしか聞いたことのなかった声が自分に向けられたからだろうか。
彼女は俺に気をとめることなく、ロッカーの上に置いてある鉢植えに向き直っていた。片手に小さなジョウロを持っていたから、水やりをしながら歌っていたのだろう。
あの歌なんて言うん?歌いながら水やりするのクセなんか?お前さんの歌が頭から離れんのじゃけど。
色々聞きたいことはあるのに言葉にならず、彼女の後ろ姿を見つめる。朝日のせいで髪の毛が光をキラキラと反射させて、この世のものとは思えないほど神聖なものに思えた。

朝の一件以来、教室にいる時は彼女を目で追うようになった。大人しい彼女は休憩時間は本を読んでいることが多い。たまに友達と話していたりもして、その時に聞こえる話し声や笑い声が心地良くて、俺の耳は彼女の声を探し当てるのがすごく上手くなっていると思う。
少し前に聞こえた会話の中で、彼女が某ゆるキャラが好きだと言っていたので、ゲーセンでとったキーホルダーを机の中にコソッと入れておいた。次の日、彼女の鞄にそのキーホルダーが付いていた時はニヤける顔を隠すのが大変だった。

月日が流れ、キーホルダーが少しくたびれてきても、彼女と俺の距離が縮まることはなかった。相変わらず、教室では姿を追って、中庭では耳を澄ませる。俺から彼女に近寄ることはなく、当然彼女から俺に近寄ることもない。
俺は彼女のことを好きなのだろうか。自分でも気持ちを計りかねている。姿を見れば嬉しいし、声を聞ければ心地よいとすら思う。でも、好きになるには俺は彼女のことを知らな過ぎるのだ。好きな色も知らないし、好きな食べ物も知らない。どんな顔で笑うのかも知らないし、どんなヤツが好きなのかも知らない。知っていることと言えば、草花が好きなことと歌声が綺麗なことぐらいで。それぐらいしか知らないのに彼女のことを好きと言っていいのだろうか。

肌寒くなってきた秋。桜の木も葉っぱがもうほとんど枯れてしまって周りに散っている。今日も植え込みに隠れて彼女が来るのを待つ。寝転ぶとカサカサと葉っぱが潰れる音がしたが、気にせず目をつぶっていたら、いつの間にか寝てしまった。
夢の中で、俺の隣で彼女が歌っていた。朝の教室で聞いたときのようなハッキリとした歌声で。歌の合間で俺と視線を合わせてくれるから、それがひどく嬉しくて胸が苦しかった。
夢から覚めると、見覚えのあるカーディガンがお腹にかけられていた。恐らく彼女がかけてくれたのだろう。毎日毎日見つめていたカーディガン。間違えるはずがない。彼女がくれたキッカケに指が震えるほど嬉しかった。

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