庭球のお話

□「……絶対嫌」
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練習中。顔を洗いたくてコートから離れて手洗い場に向かおうとしたら、微かに名無しの声が聞こえて立ち止まる。俺が名無しの声を聞き間違えるはずがない。ぐるりと辺りを見渡したら幸村がタオルを被った名無しと話しているのを見つけて心臓が止まるかと思った。

別に、二人が楽しそうだったわけでも、笑顔だったわけでもない。ただ話している。それだけなのに心臓がねじ切れるんじゃないかというくらい痛かった。二人を見ていたくなくて、名無しの視界から幸村を消したくて、名前を叫びながら飛び付いたら大騒ぎになった。離してと暴れる名無しを強く抱き締める。いやじゃ。離したくない。離したら幸村が視界に入ってしまう。このまま抱き締めていたら名無しの記憶から幸村が消えてくれないだろうかと本気で考えていたら、わらわらと部員たちに取り囲まれてしまって、真っ青になっている名無しと一緒に部室へ連れて行かれた。

幸村に促されて自己紹介をする名無しを見つめるけど、不自然なほどこっちを見てくれなくて、すごくもどかしい。なんでこっち見んの。幸村ばかり見るなと言いたいけど、そんなことを言ったら参謀や幸村に弱点を露出するようなものだと思い、ぐっと堪える。
なんで名無しはここに来たりしたんじゃ。来るなら来るで連絡してくれとったら、幸村や他の奴らに会わせるようなことは絶対せんかったのに。……まさか、俺に立海に来たこと知られたくなかった?うん、それじゃったらタオルなんか被って顔を隠してた理由もわかる。でもどうして?どうして俺に見つかりたくなかったんじゃろう。

「幸村くんの写真を撮ろうと…」
「!」

幸村の、写真?え、なに。名無しって幸村が好きなん?……ありえん。ありえんありえんありえん。無理。嫌じゃ。無理。うわ、吐きそ…。気持ち悪い。
今まで自分がいたポジションに幸村がおさまっている所を想像したら吐きそうになって思わず口元を手で覆う。

「仁王の彼女?」
「か、」

ハッとして顔を上げると困惑している名無しの顔が見えた。名無しはなんて答える?彼女じゃないと言われるのはまだいい。慣れてる。ほんとは嫌じゃけど。でも、もし、赤の他人ですって言われたら……どうしよう。

「彼女じゃないです…」
「へぇ。じゃぁ、友達?」
「とも、だち……というよりはご近所さ、ぐぇ!」

名無しが言い終える前に襟を掴んで持ち上げる。苦しそうな声が聞こえたが気にしていられない。だって、なに?ご近所さんって言おうとした。本気でありえん。なんじゃそれ。普通に幼なじみでいいじゃろ。そんなに俺と関わりたくないんか。
言いたいことが胸から喉元にかけてせり上がってくるけど、我慢する。チラッと視界に入った幸村が楽しそうな顔をしていたのが気に食わなくて睨み付けてから、名無しの手を引っ張って部室から逃げた。



保健室に入って閉じこもる体制を作って、ひたすら名無しに力いっぱい抱きついて文句を言ったら、謝って抱きしめ返してくれた。そしたら底辺だった気分はあっという間に元に戻って、自分のことながら単純だなと思った。嫌なことがあっても名無しに抱き締めてもらったり、頭を撫でてもらったりするとすぐに機嫌が治るのは昔からだけど。
このままずっと名無しとくっついていたかったけど、そういう訳にもいかないので名無しを保健室に閉じ込めて練習に戻る。一人で帰したら心配だし、一緒に帰りたかったから。今の名無しはなんだか優しいので大人しく待っていてくれるだろう。

コートまで戻るとさっきまで沢山いたギャラリーは消えていた。たぶん幸村辺りが人払いでもしたんだろう。騒ぎが大きくなって、練習するのに邪魔だよ、といつもの悪魔の笑みを浮かべて女子を追い払う幸村が容易に想像出来た。

「あ、仁王!戻ってきたのかよ」
「ん」

ブンちゃんに頷き返していたら幸村がこっちに向かって歩いてきた。人払いするほどだから機嫌は最低だろうと思っていたが、表情は明るい。何か嬉しいことでもあったかのように笑顔だ。

「やぁ、仁王。あの子は?」
「帰った」
「…そう」

たぶん幸村には俺が嘘をついたことはバレている。隠しているのはわかってる、とでも言いたげな顔だ。でもだからといって名無しがまだ保健室にいるとは絶対に言いたくない。

「あの子可愛いね」
「!」
「気にいっちゃった。また連れておいで」
「……絶対嫌」

吐き捨てるように言って幸村に背を向けた。
たぶん幸村は本気で名無しを気に入ったわけではないだろう。俺が執着しているのが面白くて言っているだけだ。頭ではわかっているのにイラつきは収まらない。八つ当たりで「本当に彼女じゃないんスか」とヘラヘラ近付いてきた赤也を殴ってもスッキリしなくて、さっき離れたばかりの名無しが無性に恋しかった。

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