短編
□爪
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爪を噛む。
この行為は自傷行為の一つで、ストレスや不安など が原因であると言われている。
この行為をし続けると、もう爪が生えてこなくなり、最悪手術を受けなければならなくなったりもする。
………。
―らしい。
爪
作・太太郎k
それは一瞬だった。
[ほい。]
本当に一瞬だった。
[早く取ってよ。]
[あ、ごめん。]
このほんの少しのやり取りの間だけのほんの一瞬。
その一瞬の間にオレは驚いた。
ほんの一瞬のこのやり取りだけでオレは驚いてしまった。
驚いてしまったのだ。
[まったく、ぼおっとすんな。]
彼女はそう言い放って、オレの方を少し睨んで去って行った。
[あ、うん。ごめん。]
彼女の背中に向かってオレはそうぽつりと呟いた。
普通なら、このほんのちょっとのワンシーンは、きっとこれからの人生の記憶の片隅にも残らない程のちっぽけな物。
だが、しかし、
今の小さな小さなほんの一瞬のワンシーンは、オレにとっては、これからの人生の記憶の片隅くらいには残るんじゃないかというくらいのレベルだ。
これはすごいことだ。
本当の本当にすごいことだ。
まさか、こんな一瞬で驚かされるとは。
最近驚いてないからって、
まさか、こんな一瞬で驚いてしまうとは。
いやぁ、久しぶりに驚いた。
[…ふぅ…。]
一回ゆっくり深呼吸をしてから、オレはさっきこの場から去って行った彼女の方をちらりと見た。
さっき、ほんのさっき、ほんのほんのほんのさっきここに居た彼女だけれども、
今ではもう女子が集まる輪の中へと入ってしまっていた。
まったく、
人の気も知らないで。
今、たった今、
オレはオマエに驚かされたってのに。
[…ふん。]
何だかそう呟いてみた。
言葉が何もなかったから。
[…うん。]
何か決心したというわけではないのだが、
またもやそう呟いてみた。
やっぱり言葉が何もなかったからだ。
さすがに、焦らすつもりでもないので告白しよう。
さっき、
彼女がオレの席にノートを渡しに来た時、
オレは見てしまったのだ。
見てしまいましたのだ。
彼女の―、
あっ、ちなみに彼女は返却係だからオレのノートを席まで持って来てくれたのだ。
彼女はさっき今日提出だった数学のノートをみんなに返却していたところだったのだろう。
うん。恐らく。
―っで、
彼女の何を見たかというとだな、
それはずばり、
`爪´
である。
のだ。
うん。
普段人の爪なんて見ないし、気にもしないのだが、
今回のはなぜか、
`自然と目が行った´
という感じだった。
彼女がオレに向けてノートを差し出した一瞬、
そのほんの数秒間、
オレはなぜか自然と彼女の爪に目が行っしまったのだ。
それは本当に自然と。
あたりまえかのように。
彼女の爪を見た瞬間、
その理由が普通に分かったのだが。
普通に分かってしまったのだが。
彼女の爪は本当に驚いてしまう爪だった。
彼女の外見と女ということからはとても想像できない程のものであったのだ。
普通、女ってのはよく分からないが、爪を伸ばしたがる生き物なはずだろう。
本当によく分からないが、偽物の長い爪をつけてカラフルな液体を塗りたくって小さいキラキラしたものなんかをつけた女の爪なんて山程見てきたことがあるのだから。
きっとそうなのだろう。
きっとそのはずなのだろう。
だから、きっと、
彼女の爪を見て驚かない奴はいないだろう。
女の爪のイメージがはっきりとついてしまっている限り、やっぱり驚く他ない。
彼女の爪は、
本当にぼろぼろだった。
ぼろぼろだったのだ。
その爪を見て、オレは一瞬で色々なことが分かってしまった。
恐らく、というか絶対、
彼女は爪を自分で噛みちぎっているのだ。
言わゆる、自傷行為ってやつだろう。
前にTVでやっていたから知ってる。
本来、爪切りで切るはずの爪を自分で噛みちぎってしまうのだ。
そのため、爪は驚く程短くなり、剥き出しになった爪の下の肉がぼろぼろになってしまう。
TVで公開していた爪の写真はそれはそれはもうひどかった。
元の爪の長さの三分の一くらいしか爪が残っていなく、剥き出しになった肉は痛そうにぼろぼろだった。
数回爪を噛んだくらいじゃこんな風にはならなく、
何年間も止めずに爪を噛みちぎり続けると、だんだんと自然に爪が生えなくなってしまうらしい。
彼女はたぶんまだ間に合うだろうが、このまま続けるとさすがに危ないのでは…?
オレがそのTVを見てなかったら、恐らくというかきっと、
彼女のぼろぼろの爪を見ても、オレはただ気持ち悪いとしか思わなかっただろう。
何でかたまたま見てたんだよなぁ…そのTV。
確かTVでは、原因はストレスとか不安だとか言ってたっけな。
…てことは、
彼女にストレスや不安が溜まってるってことか!?
………い、いやぁな…さすがにそうには全く見えないんだかな…うん。
だって、彼女は正直、正直全くもって全然かわいくない女子だからなぁ…うん。
いっつも偉そうにツンツンしてて、男子には本当に超評判が悪い。
女子の前では人が変わったように明るく優しい女子になるんだがなぁ…。
だからいつも男子達からは陰で`裏表女´だとか呼ばれてたりする。
あんなにニコニコしてる(女子の前で)のを見るとストレスは溜まってなさそうだし、
あんなに偉そうにしてくる(男子の前で)のを見ると不安なんて一切なさそうだし。
もしかして…ただの癖…とか?
…うぅん、だが、TVでは絶対に精神的な理由があるって言ってたしなぁ…。
……よく分からんな。うん。
[ストレスや不安…ねぇ…]
オレは席に座ったまま、もう一度彼女の方をちらりと見た。
彼女はやはりまだ女子の輪の中できゃっきゃっと満面の笑みで話している。
アイドルの話でもしてんのかね。
全く、女子も見る目ないわなぁ。
オマエらのクラスに超かっこいい男子が居るってんのに。
居るってのにさ。
居るのにね。
ここに。
[………あ。]
彼女の方を見てあることに気付いた。
彼女は自分の手を袖の中に隠していることを。
ああ、なるほど。
だから今まで気付かなかったのか。
…ていうか、まず人の手なんて見ないけどな。うん。
だからあんましそれは関係ないんだけどな。うん。
まあ、それはどうでもいいとして。
女子ってのはよく、かわいこぶってんのか袖の中に手を隠す。
女子はかわいこぶるためにそうするのかもしれんが、
恐らく彼女だけは違うのだろう。てか絶対。
自分の爪を隠すため、だろう。
さすがに、あんなにぼろぼろな爪を見られるのは嫌だろうし、まず退かれる。
彼女はさっき、オレにノートを渡す時、きっと爪が丸見えになっていたことに気付いていなかったんだろう。
あんなに気にしている爪をもし見られたらきっとすごく動揺するはずだし。
というか、やっぱり気にしてるんだなぁ…うん。
一応、人に見せるようなものじゃないってのは分かってるんだな。
まあ、オレはTVでひどい場合の例の写真を見たがため、言うほど気持ち悪いとは思わなかったけど。
まあ、見て良い気分になるもんじゃ決してないわな。うん。
[爪を噛む…ねぇ…]
もう一度彼女の方をちらりと見た。
あの満面の笑みの裏にストレスや不安が本当にあるのだろうか。
[………。]
じっと見ていると、不意に彼女と目が合ったので、オレはそそくさと視線を前に戻した。
今思えば、オレはけっこうさっきから彼女の方を見てしまっていた…気がする。
視線を前に戻すと、左斜め前に座っているクラスの男子がこちらを見てやたらにやにやしていて気持ち悪かった。
何だかその日、オレは妙に彼女の爪のことがやたら気になってしまった。
女子の爪があんなにぼろぼろだったのが、よほどびっくりしたからなのかどうかは分からないが。
何だかやたら気になってしまったのだ。
その日、オレは家で考えた。
彼女の爪もいずれはTVのあの写真のようになってしまうのだろうか、と。
何だかそれは嫌だな…うん。
思えば、彼女は今までずっとあんな物を隠していたのか。
女子の彼女にとってあの爪はひどく恥ずかしい物だろう。
きっと、噛みたくて噛んでいるのではないのだ。
噛みたくないと思っても止められずにいるのだ。
実際、彼女の爪を見ると分かる。
分かってしまう。
噛んで噛んで噛んで噛んで噛んで、
噛み続けた結果の今のあのぼろぼろな爪なのだ。
今まで何回も止めようとしたのかもしれない。
いや、しただろう。
したけど止められなかったんだろう。
噛み続ける度に爪はどんどん短くなっていって、
爪の下の肉はぼろぼろになっていったのだろう。
TVで爪を噛む行為は実は一種の精神病なんだと言っていた。
彼女は小さな小さな精神病なのかもしれない。
まだ小さいけれど、
これから爪を噛み続けることによって、だんだんと大きい物になってしまうのだろう。
だが、今ならまだ間に合う。
今ならまだ間に合うじゃないか。
彼女はきっと今まで誰にも相談なんてできなかったのだろう。
そりゃあ、そうだ。
あんなぼろぼろな爪を誰かになんてきっと見せたくはないだろう。
彼女はきっと今までたった一人で戦ってきたのだ。
ずっと一人で戦ってきたのだ。
笑顔や偉そうな態度の裏に、誰にも気付れないようにストレスと不安を抱いて。
ずっとずっと戦ってきたのだろう。
彼女の爪がそれを物語っている。
今ならまだ間に合うのだから、
今から何とかすればいいじゃないか。
これもきっと何かの運命なのだろう。
オレが彼女の爪を見てしまったのは、きっと運命なのだ。
たまたまの偶然という名の運命なのだ。
今はオレしか助けれないのだ。
何とかしてやろう。
―いや、
何とかしてやりたい。
オレが。
次の日、
オレは珍しく早起きをし、いつもより30分も早く登校した。
案の定、学校にはいつもより30分も早く着いた。
やはり、朝早くなだけに人がまだ全然登校していない。
オレはそそくさと靴箱の前に立ち、彼女の靴箱の場所を探した。
鞄の中から紙を一枚取り出し、彼女の靴箱の中に入れて蓋を閉じた。
そしたらオレは役目が終わったわけなので、普通に上履きに履き替えて教室へとゆっくりと向かう。
もちろん、彼女の靴箱に入れたのはラブレターなんてロマンチックなもんなんかではなく、
`昼休み靴箱の前で´
とだけ書かれたただの紙切れだ。
朝、彼女はそれを見て、今日愛の告白をされるだなんて勘違いするんだろうな。
しかも、名前も書いてないから誰だ誰だと授業中考えるんだろうな。
オレが待っててどんな顔すんのかな。
しかも、愛の告白なんてもんじゃないしな。
オレがオマエにすんのは、もっともっとすごい告白だ。
爪のこと言われたらどんな顔すんのかな。
きっと、初めはものすごく恥ずかしがって、怒ってくるんだろうな。
誰にも言うなよ、とか偉そうに言ってくるんだろうな。
何でオレ、あんなかわいくない女のために…何でこんなことしてんのかな…。
……意味分からんな。うん。
何かよく分からんが、何かもうどうでもいいや。
あんなにかわいくない女、裏表女だけど、
何だか今は助けてあげたい気持ちなんだから。
だから、
もう何だっていいのだ。
―さて、
彼女の爪はいつ綺麗になるのだろうか。
…thank you for reading
あとがき→