□ボロアパート
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 このボロアパートに越してきて早一ヶ月。同時に始まったはずの仕事が早々に繁忙期にぶち当たってしまい、今日までがあっという間だった。目も回るような忙しさで、気が付けば定時なんてとうに過ぎている。クタクタの体を引きずって帰り道の銭湯で烏の行水をしてコンビニで夜食を買う。ご飯が終わったら速攻寝る。これがお決まりのコースだ。本当は自炊をした方が体にもいいし安いのだが、そんな時間も体力も今は惜しかった。何より、今まで料理なんて数えるほどしかしてこなかったから一人で作れる自信がないというのが一番の理由なのだが。

 私の部屋はボロアパートの二階、しかも角部屋だ。そこは運が良かったというかなんというか。ただ、一つだけ嫌なことがある。…嫌なこと、というのは大げさかもしれない。私の隣の部屋には、ジャージ愛用のニートが住んでいる。丁度私が帰る時間が夕飯らしく、ドアの前を通るといつもいい匂いがするのだ。初めは彼女が作っているのかと思って、リア充爆発の呪いをかけていたのだがそうではないようで。一度だけ、おすそ分けを頂いたことがある(引っ越しの挨拶のお礼だと彼は言っていた)。頂いた料理は普通の野菜炒めだったのだが、一口食べてみてビックリ。あまりの美味しさにほっぺた落ちるかと思った。それだけのことで。たったそれだけのことで、私は彼に恋してしまったらしい。よく言う、胃袋を掴まれた、みたいな。

 此処まではよかったと言えるだろう。枯れていたオアシスに恵みの雨が降ったのだから。しかし何故か家を出る時間が合ったりするもんだから、彼には遅刻ギリギリに飛び出していく所や帰宅時の仕事に疲れきった女っ気の欠片もない姿ばかり見られていた。好きだと思ってしまうと、今までなんとも思っていなかったことが全部気になってしまうもので(元々下着を部屋干しにしていてよかったと心から思った)。まぁ、そんなこんなで私がとった行動といえば、繁忙期が過ぎるまでなるべく彼に会わないようにタイミングを変えることだった。

 そう決めた私の決意を、この匂いは簡単にグラつかせる。彼の料理が食べたい。彼の声が聞きたい。…不動さんに、会いたい。なけなしの女のプライドを総動員させてそんな気持ちをぐっと抑える。自分対する言い訳を必死で考えて。そうして毎日自分の部屋にコソコソ帰っていく。そんな自分が、たまらなく嫌なのだ。

そんなことを考えながら、今日もなんとか通り過ぎることができた。明日は念願の休みなのだし、お酒を飲もう。そう思ってろくに機能をはたしていない冷蔵庫を開けた。なんてこった。酒なんて影も形もないじゃないか。そういえば最後に飲んだのっていつだっけなぁ。また外に行かなきゃならないのかと思うと気分は重いが、しかし一度飲みたいと思ってしまった以上、飲まずにはいられない。だって明日は、休みなのだから(大事なことなので二回言いました)。ポケットに財布をねじ込んで、最寄りのコンビニへ駆け出した。





ビールが二本と、チューハイ、カクテルが三本ずつ。期間限定に釣られて買いすぎた。てへぺろ。家までコンビニの薄いビニールがもつか心配だったけれど、なんとかなったようだ。久しぶりのお酒、楽しみ。ルンルン気分でアパートの階段をのぼると、タイミングよくガチャリとドアが開いた。もちろん私の部屋ではない。そう、開いたのは隣の部屋の、ドアで…。

「お?」
「こん、ばんは」

不動さんだ、不動さんだ不動さんだ!どうしよう、私今仕事着のままだ、化粧もなおしてない。両手にお酒持ってるし、ああああでもそれよりもやっぱり会えたことが嬉しい、なんて。今までの思考はどこへやら。自分で避けていたくせにそう思ってしまうんだから、人間ってホントに現金だ。しかも今日の不動さんったら髪の毛を結んでるじゃあないか!ジャージもいつものピンクじゃないし、なんていうか…激レア。

「最近帰りおせーんだな、お宅。全然会わねーもんな」
「あ、はい、会社忙しくて」

忙しいのは本当なのだから、嘘ではない。ただ、それに乗じているだけで。不動さんはふーん、と言いながら私の右手に視線を落とした。少し目が細められたのは気のせいだろうか。

「なぁ、それって酒?」
「…酒、ですね」
「一人で全部飲むのか?」
「そうですけど、いっぺんには飲まないですよ?」
「じゃ分けてくんね、それ」
「は、い?」

突拍子もない言葉に思わず固まった。その間にも不動さんはどんどん話を進めていく。気が付けば彼の部屋に上がり込み、座布団に座らされていた。え、分けるって、その場で何本か渡して終わりじゃないの、えええ?と、ちょっとしたパニックを起こしながらも私の目はしっかりと彼の部屋を観察していた。片付いている、というよりは物がない、という言葉がしっくりくる。同じ間取りのはずなのに、こうも違って見えるのは何故なのだろう。

「ほい、お待ちどーさん。米とみそ汁も欲しかったら言えよ」

そう言って不動さんがちゃぶ台に乗せたのは煮物と、焼き魚。わ、和食だ。しかも手作りだ。美味しそう…。湯気が上る料理をじっと見ていたら、プシュッと炭酸を開ける音がした。見れば不動さんがビールに口をつけている。ごくりと鳴る喉が妙に色っぽく思えた。…あれこの人男だよな?そんな視線に気づいたのか、不動さんと視線がかち合った。

「煮物とか、嫌いだったか?」
「え?」
「食ってねーから」
「や、あの、これ食べていいんです、か」
「あ?そういう約束だろ」

私がお酒を提供する代わりに、晩御飯をご馳走する。という約束を混乱している間に交わしていたらしい。全然思い出せないけどグッジョブ自分。ありがとう、そしてありがとう!いただきます、ときちんと手を合わせると、不動さんが召し上がれと言ってくれた。私もしかして夢でも見てるのかなぁ。だとしたらなんていい夢なんだろう。





お互いに缶を三本ずつ空けた。不動さんはそんなに変わった様子もないのに、私ときたら完璧に回っている。お酒自体が久しぶりなのもあるし、緊張していたせいもあるだろう(それでも会話が弾むのだから不思議だ)。でも一番の原因はこの煮物だ。美味しすぎてかなりハイペースで飲んでしまった。意識はしっかりしているものの、このままだと立てなくなりそうだし、そろそろお暇せねば。

「ふど、さん」
「んー?」

すでに四本目に手を付けている彼に声をかけた。チラリと向けられる目に心臓が騒ぐ。視線のやり方がなんだかえろい。一体何人の人をその目で誘惑してきたんだろうか、この人は。…ハッ。いかんいかん、自分で思っているより酔ってる。早いとこ帰って寝よう。その方がいい。……って、分かってはいるのだけど。このまま勢いで、迫ってみようかなぁ、と考えてしまうのは本当に酒のせいだけなんだろうか。しかし残念かな。今の私にはそんな勇気欠片もなかったし、食欲が第一優先だったのである。

「ご飯とお味噌汁ください」

不動さんはきょとん顔をしていた。かわいい。そんな心の声が漏れていたのか、不動さんは我慢できないとばかりに吹き出してクツクツと笑いだす。そして私の頭をワシャワシャと撫でたかと思うと、上機嫌で台所に立つのであった。












2014.02.26

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