短書

□愛憎
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 それはまるで、ゆっくりとゆっくりとしみいるように…。

 好きだった。愛していた。確かにそこに愛はあった。しかし、今となってはすべて過去のことで、いつしかそれはゆがみを帯びていた。

 最後に一人で外を歩いたのはいつだろうか。肌は色を忘れたように青白く、手首は折れそうなほどに細い。その姿は生を感じさせず、瞳はうつろなまま何もとらえていない。

 都内にある高層マンションの最上階、ここから飛び降りることができたらどれほど楽か。見えない鎖はいつもついたままで、死ぬことすら許されない。ゆっくりと手を持ち上げて窓ガラスに触れる。ひやりとした冷たさが手のひらを通して伝わってくる。

 今となっては彼を何と表現していいのかわからない。かつて弟と呼んでいた男は支配者に変わっていた。国家の最高機密機関【陰陽師】。平安の世、いや、その前から受け継がれる力を用いて、今日の政は行われている。そして、その最高位にいるのが彼だった。権力に執着の無かった弟はあの日を境に変わった。何を欲しているのかもわからず、ただひたすらその力をふるう。その姿は鬼神のようだった。

 5年前。あの日も空は晴れわたっていた。時を忘れたように、風は流れていた。仕事と呼ぶほどでもない、妖の小さないたずらをやめさせるために赴いた少し離れた神社から帰ったとこだった。あのころはまだ”本家”と呼ばれるものが機能していて、家族で本家の離れに住んでいた。大きな門の横にある小さな入口を開けた時、屋敷の異変に気が付いた。
 物音一つしない家の中から異様な妖気があふれ出ていた。その中にかすかに交る弟の力。しかし、それ以外感じなかった。人が呼吸するのと同じように力も自然と体にまとわりついている。それを消すのは呼吸を止めるのと同じように難しい。しかし、今その力を弟以外感じない。いつもなら力があふれかえっているこの屋敷ではありえないこと。ぞっと背中に何かが走った。鼓動が響く。そんなはずはない。ありえない。己の中の最悪の状況に呼吸が早まる。
「真人?」
何もない空間に呼びかける。あたりは静寂に包まれたまま。太陽は容赦なくその熱で実紀を焦がした。

――がたっ

「ッ!」
小さな物音に過剰に反応してしまう。音の先に目を向ける。いや、目を向ける前に気づいてしまった。普段と何ら変わりない弟。しかし、感じる力は恐ろしく大きく、まがまがしい。

 ゆっくりと顔を上げる真人。目があった瞬間、優しく、優しく笑った眼は今の状況にあまりに似つかわしくなくて、その瞳の奥の深さが怖かった。不自然に呼吸が上がる。口の中が乾く。のどから声が出ない。ここにいるだけで精いっぱいだった。
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