短書

□愛憎
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 その時間は何十分にも何時間にも、また逆に数十秒だったのかもしれない。真人はあの笑みを向けたまま、何も言わない。風がゆったりと二人の間を流れる。まるですべてを知らせるようにかすかな鉄の、血の匂いを載せて。

 見なかったことにはできない。知らなかったことにはできない。何よりも、魔の前の光景が信じられない。知らなければならない。止めなければならない。震える足に力を込め、顔を上げる。

「…ぅいうことなの」

渇いたのどは音をかすらせ、声は震えていた。しかし、その瞳は確かな光を宿しまっすぐ前を、真人を見据えている。しかし、真人はどこまで続くのかわからないような深い瞳を笑みでかくし告げる。

「みんな殺したんだ。父上も、母上も…、さすがに御当主様と側近は手こずったけどね」

 世間話でもするかのように軽やかに話す弟。音が耳を通り抜ける。何度も、何度も頭の中で繰り返す。一歩、二歩、めまいにも似たようにその場を後ずさる。恐怖。そして、湧き上がる怒り。

「っして!どうしてっ!」

悲鳴のように叫ぶ。弟はゆっくりと音をたてないように近づき、まるであやすように姉の体を抱きしめる。動けないでいる姉の耳元でそっと小さな声でささやく。

「どうしてって、力がほしかったからに決まってるでしょ。」

弟の腕から逃れようと実紀はもがくが、力の差は歴然であり、逃れることはできない。もがけばもがくほど締め付けはきつくなり、取り囲む力も大きくなる。これほどまでの力を感じたことはない。己が呑み込まれていく恐怖。苦しさが限界を迎えようとしたとき、弟はその腕を解き、姉の頬を両の掌で優しく包み目線を合わせる。

「姉さん、僕が憎い?」

なんと言い表せばいいのかわからない。驚き、怒り、恐怖。様々な感情が入り混じる。気づいた時には頬を涙が伝って流れていた。
 真人は優しく微笑むと味わうようにその涙に何度も何度も繰り返しキスをした。そして、最後にゆっくり、かすかに震える唇にほんの一瞬、己の唇を重ね、少しさびしそうな笑顔を浮かべた。その瞳は実紀だけを捕えていた。
 すべてを遮断するように瞳を閉じていた実紀にはその姿は見えず、弟の手が首筋に触れたことに気づいた瞬間、焦がすような熱を感じ意識はそこで途切れた。
 
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