† Novel room †


□紅の姫君と覇将軍
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懐かしくも、何とも甘い香り…。
春が過ぎ、少しずつ暑くなるこの季節は、彼女を思い出す。

舞う姿は可憐で花のよう。
活気溢れる気さくな性格は、生命力に満ちていた。
いつしか愛し合い、曹丕という宝を授かり、幸せな日々が続くと信じて止まなかった。
けれど運命は残酷で、愛しの紅い華は、静かに散って逝った。







「―…操、曹…操…、曹操!」


時は過ぎ、ここは機駕。
この日は珍しく、大した事件も騒動もなく、穏やかな時間が流れていた。
会議が終わり、各々が退室していく中で頬杖ついて眠る紅の将軍を起こす、黒の隻眼の武将の姿があった。
名は夏侯惇。弟であり同じく武将の夏侯淵の兄だ。
そして肩を叩きながら起こされた眠気眼が残る将軍の名は曹操。
敵味方を惹きつけるカリスマ性と文武両道の才を持った英傑であり、機駕の現皇帝曹丕を息子に持つ機駕の先帝である。

「う、ん……っ。惇?どうした」

「それは俺の台詞だ!うたた寝するのも良いが、いくら呼んでも起きんから心配したぞ?疲れてるんじゃないか」

「……ちゃんと寝ている筈なんだがな。夢が良すぎたのかもしれん」

「夢……?」

「麗と過ごしたあの日々が……、夢になっておった」

「曹操…、お前………」



あれは数年前。
まだ自分が、霊帝直属の隠密部隊である洛陽北部公安隊の隊長だった頃の事。馴染みの酒場で、一人の踊り子に出逢った。
華奢なくせに勝ち気で、それでも可愛げがあって…。
紅い踊り子は、玉麗という名だった。自分はいつしか、彼女に想いを寄せていたのだった。
朝廷を蔑にしてきた十常寺を討ち取ってしばらく経ち、婚礼の儀を済ませた曹操と玉麗は一緒に暮らし始めた。屋敷の大広間で、曹操は一人思い馳せていた。
花嫁姿の玉麗を見た時、どれだけ美しいと思っただろう。
肌はなめらかで、瞳はまるで宝玉のよう。美貌を引き立てる豪華絢爛な刺繍や飾りで縁取られた白い衣姿。そして上等な絹を使った布、異国ではベールと呼ばれるそれを被る姿は踊り子というより、天より遣わされた姫君のようだった。
迂闊にも曹操は、《俺は天女を妻にしたのか》と当時、思わず見とれていたのである。

そんな華やかだった婚礼の儀式を思い出していたその時だった。

「天下の洛陽北部公安隊隊長様が、なんて顔してんだい」

そんな声がした途端、固い何かでコツンと頭を小突かれた。
振り返ると、片手に中身が空の茶碗を持った玉麗が呆れた顔で自分を見つめている。
曹操は小突かれた部分をさすり、不満げな顔で玉麗に抗議した。

「痛…っ。婚儀の時のお前を思い出していただけだ。悪いか」

「…別に、悪かないよ」

「ならば小突くでない。」

少し顔を赤らめて、玉麗はふいっとそっぽ向いてしまった。
曹操は悪戯な笑みで頬杖をつき、静かに立ち上がる。

「ったく。可笑しな奴……、っ!?」

玉麗が井戸へ行こうとしたその時、後ろから誰かに抱かれていた。
気付けば、曹操が自分を抱きすくめている。

「…そ……っ!……孟、徳………?」

つい彼の名を字に言い換えて、自身を抱く腕にそっと触れる。
がっしりしつつも、少し細身な腕は温かかった。
それは陽の光のように優しい。
そんな温もりだった。

「………麗。お前は、俺を愛しているか…?」

唐突にそんな事を言われ、胸の鼓動が速くなる。しがない酒場の踊り子だった自分を、この人は大切にしてくれる。
それだけで、今がとても幸せに思えた。
けれど、あんまり素直になれず、不器用な自分は棘のある言い方で返してしまう。

「全く…。相変わらず能天気だねぇあんたって。亭主がそんなんじゃ、あっという間に他の殿方のもんになっちまうよ」

言い過ぎたのか、曹操は黙り込んでしまった。焦って弁明しようと言おうとした途端、唇に何かが触れた。
それは優しくも熱を持った、甘い口づけ。
玉麗は曹操を見上げ、彼の腰に手を回し抱きしめる。
曹操は愛おしむように玉麗の絹のように触り心地が良い髪を撫で、温かみのある調子で言い聞かせた。

「俺は、お前が他の男に溺れるような軟な女ではないと信じている。それに、お前は俺を選んでくれた。だから裏切るような真似はせんし、見捨てたりはしない。俺には、お前の支えが必要だ。だから…、これからも俺のそばにずっと、いてくれないか……?」

昔から、孤独だった。
身内からも見放され、酒場で食い扶持を稼いでいくことしか生きる道がなく、自分を拾ってくれた酒場の主人に感謝しつつも、他者との馴れ合いを拒み続けてきた。
だが、曹操は違った。
顔馴染みでもあったが客としていつも酒場に飲みに来ていた曹操は、いつも疲れた表情で酒を飲んでいた。話を聞けば、自分の目指す道が見出せず悩んでいたという。そんな時に踊りを舞っていたら、彼は飾り気のない言葉で自分の舞いを褒めてくれたのだ。
時に悩みを聞いてやったり、またある時は任務に僅かながらも協力した事もあった。
親友であり良き好敵手だった鮑信を亡くし深く傷ついた曹操を見た時は、彼と同じように胸が痛み、涙が止まらなかった。
どれだけ辛かっただろう。どれだけ、力不足な自分を責めてきただろう。
いつしか、辛い事も苦しい事も、曹操と分かち合っていきたいと思うようになった。
もう、ただの顔馴染みではない。一生を共にする、大切な人だ。
ぎゅっと抱きしめて、彼の胸に顔をうずめる。
玉麗は曹操に、さっきの曹操の言葉に返事をした。

「…ああ、もちろんだよ。あたしには孟徳しかいない。孟徳以外の男なんて、考えられない。だから、あたしは…、孟徳を愛してる。三璃紗で誰よりも、曹操をずっと、愛してるよ」

花のような笑顔が咲き、曹操に口づけをする。
曹操も嬉しそうに微笑みながら、玉麗と口づけを交わした。
数年した後、玉麗は曹丕を産んで病にかかり、静かに息を引き取った。
玉麗は命が尽きるその時まで、曹操を愛し続けたのだった。
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