bear sweet fruit

□8.いまを見つめて
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「うわぁ実結ちゃん髪切ったんだ!」


「はい!今日から心機一転なので」


「あぁ、今日から独り立ちだもんな」


 新八の相槌に、「はい!」と元気良く頷く朝倉。
忙しくなる始業前のまだ緩い空気の中、皆に囲まれて彼女ははつらつとした笑顔を浮かべていた。


 ───あの金曜の夜から…
彼女の目を真っ赤に腫らした泣き顔が瞼の裏に焼き付いて離れず、土曜も日曜も、つい先程朝の挨拶を交わす直前まで…それを思い浮かべる度に胸の詰まる思いをしてきたというのに。

あれは幻だったのかと首を捻ってしまう程の眩しい笑顔を振り撒く朝倉がそこにいた。


 長かったその髪は顎の辺りの長さでばっさりと切られ、ふわふわと顔周りで揺れるそれは───最早桜花と見紛うことなど有り得ぬものだった。


「一君、なにそんな暗い顔してるの」


「……元からこのような顔だ」


「まぁ、いつもそう言うけどさ。
でも今朝は暗いって言うか…もう背景真っ黒だよ?」


「…………放って置いてくれ」


 それ以上のリアクションなど出来ず、目だけでじろりと奴を見やると総司は肩を竦めて自席へ戻る。


背景が真っ暗だと…?
見えるのか、総司。

そうだろうとも、自覚ならしている。
俺は今、激しく動揺しているのだ。


 短く切られた彼女の髪は、まさに俺に対する拒絶に見えた。
もう桜花の代わりとは思ってくれるな、そうして触れるな、と。


 そうは言えども、当然朝倉に悪意がないことなど分かっている。
あいつはそのように性根の黒い奴ではない。

恐らくはそう言葉にする代わりに、桜花に似ていると承知の髪を切ることで俺の衝動を抑制しているのだろう。
あの日、『俺にはまだあんたが必要だ』と伝えたが故にか……。


 今朝、顔を合わせた時にもこれまでと変わらず笑顔で俺に挨拶を向けた朝倉。

…彼女とて、ああまで泣いていたのだ。
真に心の底まで吹っ切れているのかは計り知れぬが。


 俺には到底真似など出来なかった。
口先だけの返事を返すのが精一杯な程、その短い髪に強い衝撃を受けていた。



* * *



 どのくらい泣いただろう。
金、土、日と、たっぷり時間はあった。


 例え痛い失敗をしたって、後悔に明け暮れるのは性に合わない。
ああすれば、こうすれば良かったじゃなくて、『だから、これからどうするか』を一生懸命考えた。


 ───斎藤先輩が好き。

これは抗い難い今の真実の気持ちだ。
苦しいけど、振り返ってもらえなくて寂しいけど、それでもいくら泣いたって簡単に消すことは出来ない気持ちだと思った。

 だったら、それはそっと胸にしまっておくより他ないよね。
今の一課の一員、育ててきた後輩としてのポジションまで手放したくはないもの…

気持ちはそのままに、もう一度春の頃の自分に戻るんだ。


 その為に、まずは桜花さんを思い起こさせるこの髪を短く切った。
彼女の代わりじゃなくて、もう一度自分として先輩に見て欲しい。

これまで特別な目で見てくれていた理由が無くなって、ただの後輩になってしまったとしても、それはそれでいいんだ。


もう一度、朝倉 実結として見て貰えるなら。



 週明け、頬をくすぐる短い髪とマフラーの巻き易さを実感しながら出社した。
気持ちも新たに、少し緊張しながら執務室へ入ると、少し前に出社した様子の土方チーフもコートを脱いでいるところだった。


「おはようございます!」


「おはよう。朝倉、随分すっきりしたじゃねえか」


「はい!今日から改めて気合を入れ直そうかと」


「いい心掛けだ。ま、髪型なんぞ関係ねえけどな。気持ちの問題だろう」


「はい!」


 良かった、変に思われなくて。
髪を切ったこと、今日から営業として独り立ちするこのタイミングなら、理由として不足はないと思ったんだ。


 その後も続々と出社される先輩方に指摘されて、気恥ずかしいながらも皆さん似合うって言ってくれて嬉しかった。

…まぁ、髪切ったんだねって指摘する時は、100人中100人が「似合うよ」って続けるに決まってるんだけど。

でも、自分でも割と気に入ったもん。
ちゃんと似合ってると思うから、褒め言葉を素直に喜ぶことにしたんだ。


 そして遂に斎藤先輩が出社して来る。
いつも出社の早い先輩にしては珍しい、始業10分前の登場だった。


…もしかしたら、私と顔を合わせるのが気まずかったり…する?


「先輩、おはようございます」


「……ああ、おはよう」


 目が合うと少しそれを見開いたけど、すぐに静かな返事が返ってきて、それはそのまま逸らされた。

いつもの感情の見えない表情からは特に反応が伺えなくて、ほっとした反面、どう思われたのか少し胸がざわめいてしまう。

 …いや、可愛いとか可愛くないじゃなくてね、髪を切った理由も斎藤先輩なら深く考えたりしそうだから。


 聞いてくれたらどうとでも答えられるのに、先輩は何も言ってくれないから…

他の先輩達との会話を、少しでも興味を持って聞いていてくれたらいいなって思った。

理由は変に深読みせずに、今日から独り立ちする後輩が心機一転髪を切りたくなったんだなって受け止めてくれると嬉しいんだけど……


 
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