bear sweet fruit

□2.桜花 〜おうか〜
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桜花の命日ーー

あの病院の桜の下に来た。
俺にとって、桜は彼女の樹だ。その名の通り。



* * *



今年のその日は新年度の始まり、営業一課にも新入社員の配属があるらしい。
俺は土方チーフからあらかじめその者の指導を任されていた。

男女を差別するつもりはないのだが、それが女だと聞いて些か気が重くなったことは認めよう…
だが、うちの部署であれば女に人気のある男性社員には事欠かぬ、そう気負うのは自意識過剰というものだ。
…そう己を戒めてその朝を迎えた。


総司と桜花の話をしていて、執務室に入るのが始業5分前になってしまった。

ドアを開けると、俺の隣の席に座る見慣れぬ背中にーー否、むしろ見慣れ過ぎたと言った方が正しかったのだがーー桜花の後ろ姿がそこにあるように錯覚し、思わず瞠目してしまう。


あの髪は……あの後ろ姿はまさしくーー

…いや、しかし、彼女はうちの社員であったことなどない、というより、既にこの世にはーー


一瞬混乱し、ドアを開けかけた場所で俺が立ち尽くしていると、カードリーダーの電子音に気付いたその者がすぐに振り返った。


(…別人……か…)


否、当たり前だな……何を今更…そうに決まっているではないか。


「…あ!?……あ……あ……あの…、」


俺が未だ驚きから立ち直れず呆然と眺めていると、何故か彼女の方も此方を見て目を丸くしている。


…何だ…?これは嫌な空気だな……
彼女の方に、俺を見て驚く理由などあるだろうか?
これが初対面には違いないのに…。


ーー他部署ならともかく、同じ営業一課として仕事をする仲間になるのだ、要らぬ揉め事を起こさぬよう、妙な感情を持つつもりならば初めから望みは断つに限る。

朝倉は心根の真っ直ぐそうな、ハキハキと礼儀正しい者でり、妙な感情さえ持たないのであれば、将来有望な営業職員であると思われた。
俺に要らぬ懸想などしてこの者をうちの課から失うのは余りにも惜しい。

それ故、俺は仕事以外のことで彼女へ口をきくことはなかったし、笑顔や隙も見せぬよう気を張って過ごした。


昼休みを迎えると、総司や左之が朝倉の歓迎会をやろうと言い出した。
2年ぶりの新人だからな…それは避けられぬだろうと俺は黙する。

執務室への帰りがけに雪村と食事をとっている朝倉の元へそのことを話しに寄ると、楽しげに平助や左之と言葉を交わすうち、総司が彼女の髪を触り出した。

そのような行動に出るとは思いもしなかった俺は動揺して食い入るように眺めてしまう。

髪を滑らす総司の手から流れる柔らかそうな緩い巻き髪。

ーー似過ぎている……艶のある髪質も、軽やかな髪色も、緩い巻き具合も……
何もかも桜花のそれと同じく見え、さながら総司が彼女の髪を弄っているかのような錯覚を覚えた俺は、思わず止めに入ってしまった。


「……総司、少しは傍目を気にしろ」


「ねぇ一君も触ってみたいんじゃない?この感触さぁ……」


!!…やはり、総司も気付いていたか…
桜花のそれに似ていると知った上で触れていたらしい。


「総司!」


「…はいはい」


仕方ないといった風に手を離す総司。

…触れてみたいんじゃないか、だと?

髪が似ていたからといって何だと言うのだ……所詮別人ではないか……。


そう理解はしているものの、情けなくもそれは俺の心を捕らえ、彼女が背を向けている時はついぼんやりと眺めてしまう自分がいた。


ーー終業間際、朝倉から渡したい物があるため時間をとって欲しいとの申し出を受けた。

…渡したい物…?
初対面の俺に渡すべき物などあるだろうか。

業務に関わるわけではないというし、これは用件を聞くまでもなく避けるべき事態だと判断した俺は、にべもなくその申し出を拒否した。


…些か強引ではあったが、ここで未練を残すような振る舞いは出来ぬ。
多少何か思うところがあろうと、所詮今日出逢ったばかりの者なのだ、深い想いなどである筈もない。

少し嫌な想いをしようと、明日には吹っ切れるものに違いない。


ーーそう朝倉の気持ちを考えていたのだが、唇を引き結んだ彼女は何やらがさがさと妙な動きをし、俺のデスクにそれを置いた。

…社用の封筒……これは恋文などではないだろうと思うが、念の為……


「……何だこれは」


「落とし物です。…お疲れ様でした。お先に失礼致します!」


逃げるように執務室を後にする背を横目に、少し首を捻った。
…何が入っているのだろうか。


「…一君、さっきのはあんまりなんじゃない?…流石に可哀想」


「一体どうしちまったんだ?お前らしくもねぇ…何かあったのか…?」


総司はともかく、チーフにまで異様に映るような行動を取ってしまったらしい…


「…いえ…申し訳ありません……」


封筒の中を覗いて、俺は驚愕した。

ーー桜花の写真…だと!?

慌ててスーツの胸ポケットを探れば、確かに今朝入れた筈のそれが無い。

落とし物、だと言っていた……

今日は確かに普段は取り出さぬそれを手に取り眺めた覚えがある。
元通りしまったつもりが、何処かで落としたというのだろうか。


ーー何ということだ。
俺の勝手な思い違いだった。彼女にはあったのだ、俺に渡すべき物が…。

恐らくは物が女の写真であることを鑑みて、ここで返さずに場所を変えようとしてくれた朝倉の心遣いを思うと、居ても立ってもいられなかった。

謝罪せねばなるまい。

己の自意識過剰により、何の罪も無い新入社員を邪険に扱ってしまった。


「…お先に失礼します!」


突然慌ただしく動き出す俺に目を丸くするメンバーを残し、間に合うよう祈りつつ駅へ走った。


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