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□マリーゴールドの泪
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病院の廊下というのは静かなものだ。

たとえ患者が立ち話をしていようともその声は密やかで、ほとんど廊下に響くことはない。そんな廊下を澪は道行く老い人に軽く会釈をしながら彼の病室を探す。なんどもここへきているはずなのだが未だに道が分からないのは病院の廊下というものが複雑なのか、それともただ単に彼女が方向オンチなだけなのかそれは定かではない。

エレベーターを降りてから数分、やっと彼の名を見つけ彼の病室の扉をノックする。一瞬シンとした間があったがすぐにどうぞという彼の返答が聞こえた。美代子が音を立てないよう扉を開けば、ベッドに座る彼の隣には看護師が立っている。

「こんにちは、出直しましょうか?」

今から彼が検査などで病室を出なければならないのならば、残念だが退散するしかない。美代子があいさつの後にちらと看護師に目を向ければ看護師は爽やかに微笑んで大丈夫ですよ、と言葉を返した。

「ちょっと血圧を測ってただけですから、では失礼しますね」
「ありがとうございました」

彼が軽く頭を下げれば、看護師はすぐに病室を出て行った。美代子もそれを見送ってから彼――幸村の傍へ歩み寄った。

「幸村くん、体調はどう?」
「よかったら入院なんてしてないよ」

心配そうに問うた美代子に対して幸村は悪戯っぽく微笑みながら皮肉を交えた返事をする。彼の答えにどう反応していいのか困った美代子は少し眉根を寄せて困ったように笑った。

「フフッ……ごめんごめん。体調は割にいいよ」
「そう?……ならいいんだけど」

美代子が言葉を詰まらせれば、柔らかく微笑みながら幸村は首を傾げる。美代子は言い知れない何かもやもやとした感情を感じながら幸村の微笑を見つめる。入院してから彼はどこか変わってしまったような気がする。幸村の微笑みは以前から美しかったけれど、こんなに儚げで寂しそうではなかったはずなのに。

「幸村くん……無理してない?」
「無理?俺は大丈夫だよ」

やはり幸村は微笑む。その微笑みがどうしても美代子の胸の奥でちりちりとした痛みを生んだ。美代子は幸村の頬へ手を伸ばす。指先が頬に触れれば幸村の身体が小さく揺れた。

「お願い、嘘つかないで……幸村くんの笑顔、前と全然違う」
「……」

美代子が今にも泣きそうな表情で幸村を見つめる。幸村は何も言わずに目を逸らし、小さく息を吐いた。そして軽く目を伏せ少し考えるような表情をした後にまた小さくため息をつく。

「美代子、ここに座って」

そういって指し示した場所は幸村のベッドの縁、美代子は小さく頷いて幸村のいった通りそこに腰掛けた。幸村の以前よりも細く白い腕が美代子のお腹に回る。明らかに痩せてしまった幸村の身体がぴたりと美代子に密着した。

「美代子には隠し事できないね。俺は君を甘く見てたようだ」

幸村は美代子の髪を優しく撫でる。美代子が自らの髪を撫でる幸村の手が震えていることに気が付くのにそう時間は掛からなかった。

「幸村くん……?」
「美代子……俺、そんなに強いわけじゃないんだよ」

いつになく弱々しい声で幸村がつぶやいた。美代子が驚いて幸村の顔を見ようとするが振り向かないで、と先ほどとは裏腹に厳しい声で釘を刺される。

「ねえ美代子、どうして俺はこんな目に合わなくちゃいけないんだろう」

幸村の手が止まり、美代子の腹部へ再び右手を回す。

「俺は普通にテニスができればそれで良かったんだ、ねえ、俺からテニスをとったら何が残るだろうね」
「ゆきむら、くん」
「きっと何も残らないよ」

幸村の声が消えそうなほど小さくなる。微かに震える彼の手を握り美代子は次の言葉を待った。

「真田は俺の帰りを待つと言ってくれた、他のみんなもそうだ。でも俺はあのコートに戻れる自信がない」

幸村の声も震えている。

「俺はテニスでしか生きていられない……もし手術に失敗すれば俺に先は無い。でも……」
「……」
「先の無い未来が決まるのが怖いのに、このまま燻っているのも物凄く怖いんだ……。みんなが俺を置いて行ってしまう、そんな気がしてならない」

立海大のテニス部の仲間が幸村のいない間も常勝を守ろうと今も必死に練習を積んでいることは美代子も知っている。酷く幸村の心情が彼の手から、声から美代子へと流れ込む。

「怖いんだ、みんなが俺を置いていくんじゃないかって……」
「そんなこと……っ!」

耐えきれなくなって美代子が幸村を振り返る。彼を視界に映せば切り裂くほどの胸の痛みが走る。美しい双眼に涙を浮かべる彼は先ほどの微笑とは比べ物にならないほど切なく痛々しい。美代子は掛ける言葉を見つけることができなかった。

「美代子も、俺を置いていくんじゃないかって……テニスの無い俺は、俺じゃないから」
「ゆきむらく」
「ねえ澪」

幸村の瞳から一筋の涙が伝う。

「俺テニスがしたいよ……まだ生きていたい、死にたくないんだ俺」

最後の声は涙に掠れて尻すぼみになった幸村の言葉は、美代子の目からも涙をあふれさせた。どうして、彼なのだろう……私が変わってあげられたらいいのに。美代子は痩せてしまった幸村の身体を抱く。この細い体でどれだけの不安と恐怖を抱えているのだろうか、幸村に以前の彼らしい強さは無い。

「美代子……俺を置いて行かないで、俺を一人にしないでくれ……っ!」

返事の代わりに幸村を抱きしめる手に力を込めて彼の背中を優しく擦った。この程度の事しかできない自分が情けなくて悔しい。美代子の視界に窓の外の風景が滲んで映る。残酷なほど明るくて暖かいあの世界が、せめて彼の瞳に優しく映ることを望まずにはいられない。
 

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