Lost Focus

□Prologue
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◆prologue00
※『』は英語です。






 窓辺から見下ろせるダム湖の水面は凪ぎ、周囲の黒い山は残雪で美しく彩られている。



 山の中腹にぽつんと建った木造住宅は、最近人気[ヒトケ]が多かった。
 普段は初老の夫婦2人のみなのだが、そこに1人増え、さらに1人増え、そしてさらに4人増えて、結果8人の大所帯となったのである。
 夫婦2人で住むには不相応な広さが、10余年ぶりに報われた2週間であった。





『だからもう、お礼はいいのよ、ルエラ』


 初老の婦人が言うと、ルエラはいいえ、と首を振った。


『何度言っても足りない位です、キョーコ』
『本当に』


 ルエラの隣に並んだ彼女の夫のマーティンもまた、何度目かわからない感謝の言葉を口にする。

 婦人はやさしく微笑んだ。
 その隣で、彼女の夫がやれやれ、とわざとらしく肩をすくめる。


『何も、知らない仲じゃないんだからと、何度も言っただろう?』
『ドゥーの言う通りよ、二人とも。友人の息子を助けるのは、友人として当たり前じゃないの』


 上品に微笑んだ彼女の目が、ドアから入ってきた青年に向けられた。


『ちょうど良かったわ。オリヴァー、あなたのお父様とお母様をどうにかしてちょうだい』
『・・・・・・どうにか、ですか?』


 決して初めてではない婦人の無茶ぶりだが、青年はどうしたものかと眉を寄せてしまう。

 それをみて、婦人の夫はくっく、と笑った。


『年寄りの戯言だ、そう真面目に受け取るんじゃないよ、オリヴァー』
『あら、誰が年寄りですって?』
『君だよ いつまでも顔だけ若い僕の奥さん』
『お褒め頂けて光栄だわ、私の旦那様』


 70を間近に控えているとは思えないほど艶やかな容色の彼女の軽口に、ルエラとマーティンは懐かしさで頬を緩めた。


『あぁ、やっと笑ってくれたわね』


 それを見た婦人が嬉しそうに手を合わせて喜び、ルエラの肩を抱きしめる。


『・・・歳をとると、涙もろくていけないわ』


 ハンカチで滲んだ涙を拭くルエラに、婦人はあらあら、と茶目っ気たっぷりに笑う。


『それを貴女より年上の私たちの前で言うの?』


 婦人の夫が耐えきれずに噴き出し、広く厚い肩を揺らして忍び笑いにもなっていない忍び笑いをする。マーティンもつられて口元に手を当てた。


『ちょっと、ナル通して・・・・・・って、何みんなして大笑いしてるの?』


 青年――オリヴァーの後ろから、車いすに乗った、オリヴァーそっくりの青年が現れて、目を丸くする。


『笑う門には福が来るのよ、ユージィン』


 婦人はにっこりと答えた。
 ユージィンの車いすを押していた女性がそれを受けて大きく頷く。


『その通りだわ』
『でしょう? まどか』


 婦人は我が意を得たり、とばかりににんまりと破顔した。
 まどかの後ろから長身の男性が部屋を覗き込む。


『準備ができました』
『あぁ、リン、ありがとう』
『あぁまたこのひろぉい家に、見慣れた顔とふたりきりだわ』
『こちらこそ』


 婦人のウンザリ、と言わんばかりの表情を、夫はおかしそうに茶化した。


『また顔見せに来ます』
『その時は大怪我なしでな』


 ユージィンの言葉にオリヴァーがぼそりと付け足して、ユージィンの顔が苦みを含んだ。


『当たり前だよナル!』
『どうだか』
『ホントにねぇ』
『!ちょ、キヨコまで・・・』
『はは、まぁまぁ、とにかく、また遊びに来てくれたら、寂しい老いぼれたちとしては嬉しい限りだよ』


 婦人の夫がまとめたところで、8人は冬へと向かう空気の中へと出た。




『もうお二人は、イギリスにいらっしゃる気はないんですか?』


 問いかけたのはまどかだった。
 大柄な肩が竦められる。


『ご覧のように不便なところだけれど、どうも離れがたくてな』
『・・・・・・きっとこれが歳を取ったってことなのでしょうねえ』


 その時、ふと車いすから見上げた婦人の顔が、歳相応の疲れ果てたものに見えて、ユージィンは気づかれないようにそっと目を逸らした。


『でも、やっぱり遊びにいらしてほしいわ。昔のように』


 ルエラがそう言って婦人の手を取り、その頬に頬を寄せた。
 婦人は、にこりと笑って、ルエラのキスにキスを返した。


『えぇ、そうね。ぜひ。』
『ドゥーシャ、待っているよ。上手い酒を手に入れておこう』
『あぁ、ありがとう、マルス。元気でな。リン、まどかも』
『オリヴァー、ユージィンもね』


 少し寂しそうに笑う夫妻に、6人は6人とも後ろ髪をひかれる思いで車に乗り込んだ。






□□□□□□□□□






『さびしそう、だったね』


 ユージィンが、車内の沈黙の中にぽつりと呟いた。


『・・・・・・貴方たちと、同じ、同じ年頃のお孫さんがいたのよ』
『いた・・・?』
『あぁ、亡くなってしまって・・・もう10年近くになるね・・・本当に、痛ましいことだった・・・』


 マーティンの重々しい口調に、ジーンとナルは顔を見合わせた。


『中国に遊びに行っていらしたのだけどね、お嫁さんの実家の方に。・・・火事でね』
『信じられない話だわ、だって‥『まどか』


 マーティンが静かにまどかの言葉を遮り、彼女は渋々と口を閉じる。


『この話はおしまいだ。さ、楽しい話にしよう、ジーン、家に帰ったら何が食べたい?』


 マーティンの問いかけを受け、ユージィンは素直にうーん、と考え始めた。

 その横で車の外を眺めるオリヴァーの宵闇色の目の中には、木造の大きな家がまだ映っている。








 庭にある、大きな木を使った簡素なブランコ。
 軽やかに上昇と下降を繰り返す度、子供の控え目な笑い声がする。黒い髪が柔らかに翻って見える。
 夫の声もする。可愛くて可愛くて仕方ないという声だ。

 おばあさま、と子供は呼び掛ける。
 微笑む自分の腕に飛び込んで、子供はやはり、くすくす、と控え目に笑う。


ーーーおばあさま、だいすき。
ーーーえぇ、私もよ。あなたがだいすきよ。


 子供は自分の腕の中、鮮やかに透き通る青い目で、嬉しそうにはにかんだ。






 場面は、複雑に変容した。






 一面の桜が見える。
 傍らにあるのは赤いランドセル。
 膝を抱え、小さな池をぼんやりと眺めている。薄紅の花弁が降り積もって雪のよう。
 つきん、と頭が痛むから、目を閉じる。
 そして、悄然とした気持ちで、かえりたい、と呟いた。









 気が付けば木造の家はすっかり遠去かって、湖も木々の間に姿を消していた。

 オリヴァーはそっと溜め息を吐いて、手の中のそれを懐へ。
 問い掛けるような片割れの視線にはひと言だけ。他の誰にも聞かれない方法で伝える。


《グリーンのハレーションは、ない》


 そして迂闊な片割れは、予想通りに目を輝かせて口を開こうとする。そんな彼を黙らせるため、オリヴァーはギプスに包まれた片割れの脚に、容赦なく踵をぶつけた。


「んっだぃ!!!」
『どうした?!』
『ジーン?!』
『ぼーっとしていてぶつけたらしい』


 いけしゃあしゃあと嘯く片割れにユージィンは恨みがましい目をやるが、オリヴァーは鼻を鳴らすだけだった。






 それは、物語の始まる約半年前のこと。
















(・・・ナル、ひどくない?)
(お前が馬鹿なのが悪い)
(ほんとヒドい。でも、賛成してくれるんだ?)
(放っては置けないだろう)
(うん、恩返ししたいよ)
(・・・そうだな)


改稿:2019/8/10

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